2005/05/09
以下に紹介するのは、「本当の北朝鮮を知る会」石倉雅子さんの発言です。

初出 : 産経新聞社 月刊誌『正論』 平成16年9月号
本日「正論」編集部の了解を頂き、当サイトでアップ致します。
原稿はご本人より頂きました。「正論」誌との差違があれば、こちらが新しいものになります。

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在日学生に忍び寄る北のリクルート作戦
石倉雅子


「まるでヤクザの館だ」

   2003年(平成十五年)九月八日。北朝鮮の建国五十五周年記念式典が行われていた東東京朝鮮文化会館(東京都北区十条)前で、北朝鮮の人権抑圧体制を批判している韓国の市民団体「政治犯収容所解体運動本部」のメンバー、姜哲煥氏たちが、「朝鮮総連は責任を取れ」「強制収容所を解体せよ」と抗議の声を上げていた。日本の「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」、「RENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)」や、「救う会」若手メンバーたちも彼らを支援しようと集まっていた。
   会館側からは、彼らに対して、「不法侵入だ」「威力妨害だ」と怒号が飛ぶ。屈強そうな体に、見るからに着慣れないスーツ姿の二十〜三十歳の若者たちが門前に立ちはだかっている。総連が組織をあげて養成している「フクロウ部隊」だろうか。フクロウ部隊は、北朝鮮にとって不都合なことを訴える集会をことごとく暴力で潰してきた。
   施設の内側からは、テレビ局が使うようなカメラやホームビデオカメラが抗議者達の顔を撮影している。階段上から、カメラ付き携帯で撮影している者もいた。
   抗議の模様が、北朝鮮のニュースで流れるなら本望である。北朝鮮にいる人達の希望となるだろう。しかし、撮られた映像が、そんなことに用いられることはないだろう。総連側が把握していない顔はないかチェックし、居れば身辺調査が行われる。もしも在日なら、家族・親戚に対して想像を絶する嫌がらせが始まる。そして、北朝鮮にいる親戚は公開処刑、もしくは収所行きとなるであろう。
   「これは、決して在外公館ではない。まるでヤクザの館だ」
   私は内心そう思いながら、門前にいる総連の青年に尋ねた。「Kさんはご存知ですか。」青年は何も答えない。再度、「Kさんは本日の式典に来てますか。」と問いかけた。彼は、無言で首をかしげ聞こえないふりするだけだった。
   総連は、いつもこうだ。彼らの論理から外れた質問すると、黙ってしまうか話をそらせてしまう。しかし、自分たちが被害者であるときは、声高になる。


留学同との出会い

   在日韓国人三世の私が総連と出会ったのは、大学一年生のときのことだ。
   関西地方の大学に入学したばかりの1991年4月。仲良くなったばかりの友人たちと学生食堂に行ったとき、テーブルの上の落書きに目が留まった。
   「在日コリアンのサークル テニス・旅行・料理・語学など」
   それは小さな字で、鉛筆で書かれていた。私は日本人の友人たちに気付かれないよう、記されていた電話番号をこっそり控え、数日後に番号に電話をかけてみた。電話に出た男性からは朝鮮語で何か言われた。困った私は、サークル案内をみた旨を日本語で話した。すると、相手も日本語で話してくれた。彼は在日三世の大学生で、なまりもなかった。
   名前を聞かれ、いつものように通名で答えると、今度は「本名は」と聞かれた。
   父が以前「親戚からきいた」といって一、二度教えてくれた読み方を思い出した。「ソン・・です。」と答えると「どんな字」と聞いてくる。漢字で説明すると、読み方が間違っていると丁寧に教えてくれた。
   とても、恥ずかしかったことを、はっきりと覚えている。

   日本人の多くは、在日はみんな韓国・朝鮮語ができると思っているようだが、大きな誤解だ。
   在日コリアン(韓国籍・朝鮮籍)の八割以上は、一般の日本の学校を卒業していると見られる。全授業を朝鮮語で行う朝鮮学校に通う「在日朝鮮人」の子供達と違い、在日韓国人三世で韓国語が話せるのは、韓国に留学経験のある者ぐらいである。
三世どころか、二世である私の両親・叔父・叔母たちも言葉ができない。家が貧しく、必死で働く一世の親を支えるため、学校も満足に行けなかった二世達に、韓国語なんて学ぶ余裕があったはずがない。
   しかし、面白いことに二世のほとんどは、自分の親の話す韓国・朝鮮語のみ理解できるのである。ごく稀であるが、三世で留学経験がなくとも、言葉を理解する者もいる。祖父母と同居していた者たちである。ただ、彼らが理解できるのは一世が興奮すると思わず口にする「人を罵る汚い言葉」だけだそうだ。
   そして、在日韓国人の約九割は日本名(通名)で生活している。一方、総連系の人は、学校卒業までは民族名(本名)使用の割合が高い。
   私は、幼稚園からずっと日本人と同じように教育を受けてきた。日本名を使用し、祖父母とも同居でもなかった。在日との付き合いも、親戚以外はなかった。親戚に朝鮮学校に通った者も一人もいなかった。

   後に知ったことであるが、私が電話をかけたサークルの番号は、在日コリアンの大学生たちだけが住む寄宿舎(キスッサ)のものだった。
   そこに入居できるのは、男子大学生だけだ。しかし、ロビーまでは女性でも入れたので、何度か遊びに行ったことがある。朝・夕の二食付きで一ヶ月一万八千円と聞いた。その安さに惹かれ、入居するものもいた。
   ロビーには肖像画が二枚並んで掲げられていた。当時の私は、その肖像画が北朝鮮で長年独裁体制を敷いてきた親子だとも分からないぐらい、彼の国に無知だった。普通の日本人の感覚として、この建物の創設者の肖像画なのだろうと考えていた。
   最初の電話に応対した男性の紹介で、数日後に同じ大学の先輩に会うことになった。それがKさんだ。K先輩は私より一学年上で、高校までは朝鮮学校に通っていた。リーダーシップもあり、とても面倒見のよい人だった。
   K先輩に限らず、朝鮮学校出身の先輩たちは皆、日本の教育しか受けてきていない私たち新入生をサークルに温かく迎えいれてくれた。誘われた「学習会」(ハッスッペ)に夢中で参加した。月に一〜二回、 土曜日の午後に各大学の朝鮮文化研究会(朝文研)のメンバーが一つの大学に集まる。総連の専従家もたまに顔を出していた。
   都合のつかない者もいたが、「学習会」には毎回、三十人ほどが集まっていた。学生の多い都市ということもあり、メンバーは全部で七十人くらいはいた。このグループを「留学同」(リュハットン)と呼ぶことは、のちに知った。正式名称は、「在日本朝鮮留学生同盟」。当時は、留学同が総連傘下の団体とは知らなかった。総連の専従家たちも「総連」という名前はまったく出してこなかった。自分の中では、ただ「朝鮮学校出身者が多い、在日コリアンの学生サークル」という認識であった。

   「学習会」のプログラムは毎回ほとんど同じだった。
@スキル別の簡単な朝鮮語講座
A在日や朝鮮半島に関する歴史の学習
Bテーマごとの討論 最後はノレ(歌)で締められた。
   朝鮮学校卒業者が講師を努める朝鮮語講座は、私のような日本の一般学校出身の在日韓国人に対して行われた。歴史の学習では、前もって指名された人がレジュメをまとめ、発表する。そこで、朝鮮半島の歴史や朝鮮戦争についてなど教えられた。「阪神教育闘争」を初めて知ったのもこの学習会であった。とても、衝撃的な内容だった。この事件は、朝鮮学校では最初に教えられると聞いた。
   私は、朝鮮学校出身者たちが歴史に詳しいことに驚き、自分が何も知らなかったことを恥ずかしく思うようになった。討論会のテーマは、「本名を使うべきか」「結婚」といった身近なテーマが当初は多かったように記憶している。締め括りのノレは、「故郷の春」「朝露」などがよく歌われた。「朝露」は、美しいメロディーの曲である。「この曲は、韓国では、軍事政権化時代に禁止された。でも、民主化を願い闘う学生達の間で歌われた。」と教えてもらった。
   約二時間の「学習会」が終わると、居酒屋や同胞の経営している焼肉屋での飲み会になった。
   留学同のメンバーの名前は、私にとっては慣れない朝鮮語のためなかなか覚えられなかった。会うたびに名前を繰り返し尋ねた。先輩や同級生たちは「自分も日本の大学に入学して、日本人の友人の名前がなかなか覚えられなかった。」となぐさめてくれた。みんな本当に優しかった。

   小旅行にも何度か参加した。そこでも「学習会」は行われた。ある時、夜の楽しい団欒時に、一人の同級生が泣き出した。「今まで日本の学校に行っていたけれど、自分の気持ちを友人に素直に打ち明けることができなかった。」と言う。そして、別の日本学校出身の同級生も同じように泣きだした。その後、二人は今までの通名使用をやめ、本名で大学に通うことになった。
   次の学習会では、「OOトンム(友人)が、本名宣言しました。」と先輩から発表された。本名宣言した者たちは、皆に拍手で迎えられた。こうして本名に切り替えるメンバーが増えるたび、通名で生活していた私は彼らに羨望の思いをもちつつ、肩身の狭い思いをした。
   私は、それまで自分のことをあえて説明するときは、「在日韓国人」と言っていた。しかし、朝鮮学校出身者がほとんど占める留学同で、自分を「在日韓国人」とは名乗りにくい雰囲気であった。彼らは皆、自分のことを「在日朝鮮人」いや、それよりも単に「朝鮮人」と名乗ることが多かった。「在日韓国人」では、彼らを排除してしまう。「在日朝鮮人」には、韓国籍も含まれるから「在日朝鮮人」と名乗るのが正しいのではないか、そう思うようになっていった。
   当時は、連邦制による南北統一ムードが最高に盛り上がっていた。「祖国統一」のため、まずは在日同士が手を組まなくてはいけないという彼らの主張を繰り返し聞かされた。それまで政治的なこととは無関係に生きてきた日本学校出身の在日韓国人学生たちも、自然に同じ考えを持つようになっていった。
 

参政権や大韓航空機事件で違和感

   留学同の活動はとても楽しかった。メンバーが祖国を思う気持ちが強いのに驚きながらも、尊敬の念を抱いていた。
   しかし、徐々に気持ちのズレを感じるようになった。
   学習会で在日コリアンの選挙権がテーマになったことがあった。彼らが、「選挙権は必要ない」と言い切ったとき、私は腰を抜かしそうになった。朝鮮学校でも、当然そのような権利を要求するための教育を受けていると思いこんでいたからである。
   私は、「なぜ、必要ないのですか」と質問した。進行役の先輩は、「それは同化政策だからだ」と答えた。よく理解できない私に先輩たちは、更に説明してくれた。
   「昔、日韓併合で我々の祖先は日本人にさせられた。選挙権を与えられるということは、再び我々が日本人にさせられるということだ」という。そして、「民族の誇りをもって生きていくことが大事」と熱く私に説明してくれた。私は、選挙権が同化政策に結びつくとまでは考えが及んでいなかった。しかし、彼らのいうとおりかもしれないと思うようになり、それ以上深くは考えなかった。
   次に、祖国統一がテーマになったときのこと。「統一のために、在日同士が協力しなくては」という議論までは、何の疑問も感じなかった。しかし、その後に「日本にいるものが、祖国のために援助しなくては」と意見がまとまった時には、また疑問が湧き、三十人以上の前で挙手をして発言した。
   「祖国統一も大事。しかし、これからは在日という立場で、日本社会で共生する方法を探すのが良いのでは」
   その瞬間、不穏な空気が流れたように感じた。彼らが何と答えたか覚えていない。しかし、進行役やその場にいた朝鮮学校出身者達が慌てて私の発言を諌めたことだけは、はっきり覚えている。
   「選挙権」や「祖国統一」の問題で、私のように異論を唱えるものは他にいなかった。皆の前で質問しても、どうも気持ちがしっくりこない事が多くなった。「祖国統一」がまず取り組むべき一大事なのだろうかと私には疑問だった。更に韓国の悪いところばかり教えられているような気がしたことでも違和感を覚えた。金日成の名前もでてきた。どうも、みんなが北朝鮮の方が韓国よりもよい国だと主張しているように感じた。
   朝鮮学校出身の同級生と二人になった機会に私は質問した。
   「祖国が統一したら、帰るの?」
   同級生は困った顔になり、答えをくれなかった。意外だった。あの学習会の討論の熱気からして、統一されればすぐにでも帰りそうな雰囲気だったからである。
   「じゃあ、北と南、今、住むことができるとしたらどっちがいい」と別の質問をした。すると、更に困った顔になり、「自分は朝鮮籍で、韓国には行けないから、韓国かな」と返事をした。腑に落ちなかった。

   別の朝鮮学校出身の同級生とは、こんな会話もあった。
   私が、「北朝鮮を支持しているの」と聞くと、同級生は、「うん。金日成は国のために戦った偉い人だから」という。
   「日本の新聞読んでる」と質問をすると、「読んでるよ。でも、日本の新聞に書かれていることは全て真実ではないし」と何の疑いもなく答えた。私は、ショックを受けた。
ある時は、五、六人だけの学習会があった。「大韓航空機爆破事件」がテーマであった。
   「あれは、北がやったに決まっているでしょ」と私は軽く言った。これなら誰も異論はないだろうと思った。だが驚くことに私以外は皆、南(韓国)の仕業だという。私は必死に反論しようとした。しかし、私は知識不足であった。K先輩は「金大中拉致事件」を例に出して、韓国政府がいかに汚い手段を使うか説明した。
   「でも・・・」と普段あまり発言しない別の先輩が小さな声で言った。「自分の北にいる親戚は、その事件のことを知らなかった」と(今になってなって思えば、私があまりにも可哀想に思えたのであろうか。それとも、その先輩にも疑問が生じたのであろうか)。
すると、進行役のK先輩はこう言った。
   「共和国(北)は今、発展途上で頑張っている。そのような時期に同じ民族でこのような事件があったと知れば、人民は動揺する。だから知らせていないのだ」
   そして、K先輩は「トンムはまだまだ勉強不足だな。」と私に数冊本を貸してくれた。すべて「大韓航空機爆破事件は、南(韓国)陰謀」説の本であった。韓国陰謀説の本がそんなにも日本で出版されていたことに驚いた記憶がある。私は、その本を持ちかえざるを得なかったが、全く読まずに返却した。感想を聞かれたが、適当に答えておいた。
   こうしたことが重なって、次第に留学同から足が遠のいていった。
 

密かな北朝鮮行きの誘い

   それから、約十年後の2002年(平成十四年)九月十七日、小泉首相訪朝で、それまではあくまで「疑惑」だった北朝鮮の日本人拉致が事実として明らかにされた。
   私は、十年前に「日本人拉致はデマだ」と言い切ったK先輩のことをふと思い出した。「日本語教育が必要なら、わざわざ危険を冒して日本人を拉致する必要なんてない。日本語も朝鮮語もできる在日がたくさんいる」とK先輩は笑い飛ばした。
   彼は金正日による拉致謝罪をどのように受け止めたのであろうか。
   それから、私は書店に多く出回るようになった北朝鮮や総連に関する本や記事を読んだ。その中で、総連が在日韓国人学生を必死でオルグしていることを知った。「友人」という意味だと聞いていた「トンム」は「同務」と書き、韓国でこの言葉を使うと、北のスパイだと警戒されることも。
   また、多くの在日朝鮮人たちが帰国した親戚を北朝鮮に人質としてとられている実態や、、無実の罪で放り込まれた政治犯収容所から助け出すのに、数千万から一億円を在日が払い続けたことも知った。
   こうしたことは、留学同での、ある出来事と重なった。「北朝鮮に行かないか?」と誘われたのを思い出したのだ。
   最初、声をかけてきたのはK先輩であった。「韓国・アメリカ・日本・ロシアなど世界に散らばっている朝鮮人学生が、北朝鮮に集まる祭典がある」という。とても、魅力ある話だった。しかし、何故だかあまり気乗りせず、「考えておく。先の予定はまだわからないし」と、適当に返事をしておいた。
   総連専従家からも北朝鮮行きを誘われたが、やはり適当に断った。それから、しばらく後、今度は秘かに好意を寄せていたO先輩から「食事に行こう」と突然誘われた。
   O先輩は車でやってきた。寄宿舎の誰かの車を借りてきたという。食事中、「北朝鮮に行かないか」と誘われた。例の祭典の件である。しきりに「滅多にない機会だ。楽しいぞ」と勧めてくる。断りきれない雰囲気になっていた。
   念のため「もちろんO先輩も行かれますよね。」と確認した。すると、意外なことに「行かない」とのことであった。
   「もうすぐ姉が結婚する。自分は韓国籍である。家族の中で北朝鮮に行ったものがいれば、韓国政府は家族全員のパスポートを取り上げる。そうなると姉は新婚旅行で海外に行けなくなってしまう」と悔しそうに説明した。
   私は、その場ではO先輩の説明に対し、納得するフリをした。しかし、心の中では「それなら、私が北朝鮮に訪問したことにより、私の兄弟、家族は海外旅行できなくなっても良いと考えているのか」と反発していた。他人に勧めているO先輩の家族は海外旅行でき、私の家族が海外に行けない。理不尽だった。
   北朝鮮行きを断ると、その後O先輩から食事の誘いはなかった。
   私の北朝鮮行きへの説得。それは、K先輩、総連専従家、O先輩により計算(工作)されていたことだと、今は確信している。北朝鮮行きに何もやましい事がなければ、学習会で皆の前で参加者を募集すればよいことである。なぜ、彼らはそうしなかったのであろうか。

   拉致被害者で神戸の女子大生だった有本恵子さんを誘拐したと告白した八尾恵氏は著書『謝罪します』の中で、留学同の生野支部の副委員長からの勧めで、「正体不明」の男性と会い、この男性の導きで、彼女が北朝鮮に渡ったこと、また「正体不明」の男性を紹介した留学同の副委員長は、今も総連の幹部であることを明らかにしている。そして、私を北朝鮮に誘った留学同担当の総連専従家も現在、総連で役職についている。
   元総連中央本部・財務局副局長の韓光熙氏は著述『わが朝鮮総連の罪と罰』の中で、1972年(昭和四十七年)四月十五日の金日成の六十歳の誕生日にあわせて起きた恐るべき事実を記している。
   「北朝鮮の国旗と金日成の肖像画を旗にした祝賀旗をたなびかぜ、いずれは総連の幹部になろうかという優秀かつ忠誠心の強い若者たちが(六十周年記念にあわせて)六十人選抜され、六十台の単車で乗りこんだ」「そして、青年達は、本人の意思とは関係なく北朝鮮に定住させられ、二度と日本に帰ってくることはなかった」
   「首領様へのプレゼントとして贈られた60人の在日青年」。家族にも連絡もなしに「突如消えてしまった優秀な朝鮮大学の学生達」。そして、「拉致された在日」。家族達は、今も声を出せずにいる。
   修学旅行で北朝鮮を訪問した同級生や先輩に「どうだった?」と単なる好奇心から質問したことがあった。
   彼らはお互い顔を見合わせ、私に対してすぐに答えてくれなかった。その態度に不思議なものを感じた。
   もう一度質問すると、「停電ばかりで怖かった」とようやく一人が教えてくれた。
   今思えば、貧しい身なりで話したいことも話せない北朝鮮の親戚に会ってきたものもいたのだろう。線路脇の餓死者を見て、泣き出した学生もいたとその後聞いた。
   同級生達も悲惨な実態を目にしてきたのではないか。それを在日韓国人の私に話すことによって何が起きるか。北朝鮮には「連座制」があり、在日の言動が、北朝鮮の親戚の生命を握っている。北朝鮮の親戚だけではない。在日には、少なくとも日本、韓国、北朝鮮いずれの国にも親戚がいる。ロシアや中国、アメリカにいることもある。どの国の親戚が「交通事故」で突如死亡するかわからない。
   だから、彼らは無難な停電の話で、北朝鮮の現実話は切り上げたのだ。
   朝鮮学校は北朝鮮の独裁政治体制による恐怖や連座制により、真実を語ることのできない子供たちを今も増やし続けている。祖国と慕う北朝鮮のことを聞かれながら、黙りこんでしまったり、話をそらしたりということを、子供たちにいつまで強いらせるつもりなのか。そんな子供たちをこれ以上増やしたくない。
 

消えない不信感

   五十五周年記念大会の行われていた東京朝鮮文化会館前。私は、門柵の間から手を入れ、先ほどの青年の手をとり、こう言った。
   「みんな同じでしょ。私だって親戚がいるのだから。私の親戚はもう処刑されたかもしれない。」
   それまで、「業務執行妨害だ。」と怒鳴っていた総連の皆が黙ってしまった。つらそうな顔を見せるものもいた。
   結局、私は警官隊の制止により門前を離れた。
   帰り道、警備をしていた警察官が一人寄ってきた。「個人的にはあなたの気持ちは良くわかります」とそっと声をかけてくれた。けれど私は涙で顔もあげられず、返事もできなかった。

   今年五月二十八日から、総連の第二十回全体大会が同じ東京朝鮮文化会館で開かれた。大会には、五月二十二日に二度目の訪朝を終えた小泉純一郎首相が自民党総裁としてメッセージを寄せた。小泉首相は日朝首脳会談について、「日朝間の最大の懸案の一つであった拉致問題について、一部とはいえ被害者ご家族の帰国が実現し、また安否不明者の真相究明につき、白紙に戻し、直ちに調査を再開するとの約束がなされるなど、一定の前進が得られました」と紹介している。八尾恵に「正体不明」の男性を紹介した人物や私を北朝鮮に送りこもうとした総連専従家が参加しているかもしれない集まりに、一国の最高権力者がメッセージを寄せたのである。
   小泉首相は、メッセージの中で「私は、在日朝鮮人の方々に対して、差別が行われないよう、友好的に対応する考えを(金正日総書記に)伝えました」とも述べている。
   しかし、いくら首脳同士が「差別しない」と約束しても差別はなくならないであろう。在日朝鮮人と日本人の間にわだかまりを作ったのは日本人だけのせいではない。総連の人間が現実から目を背けているからだ。

   いずれ、国交は正常化されるかもしれない。しかし、総連が日本社会で携わった拉致を含むテロ・工作行為、脱税、不正送金などにより北朝鮮というパラサイトテロ国家を支援してきた詳細を明らかにし、一から出直さない限り、国交が正常化しても真の友好はありえないだろう。日本人が彼らに抱く不信感が消えることはない。
   在日韓国人の私でさえ、そのような人たちと友好関係を持つことを望んでいないのだから。
 

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