「演出ミサ」に見る危険性と青年の教会離れ

 

                           川 崎 重 行
                           「ヴァチカンの道」第34号 Apr.15.2001

【はじめに】

 近年、ミサにおける無用な創意工夫が世界的規模で進行している。我が国でも若者対象のミサなどで行き過ぎた「手作り」が汚聖と紙一重のレベルで平然と行われている。私は「手作りの教会」という概念を懐疑する。教会の敷居を低くして、不特定多数の人を教会に招くのは、一見、時流に乗った改革のようにも映ずるが、このような安直な試みは豊かな善き実を結んだ試しがない。ともすれば中身の伴わない打ち上げ花火で終わってしまう。手の込んだイベント型のミサを見るたびに、私はなんともやるせない空虚な気持ちに襲われるのである。不自然かつ無用な創意工夫を凝らしたイベント型のミサをここでは便宜上「演出ミサ」と呼ぶことにする。演出ミサは特に若者を魅了する目的で企画されるケースが多いことを鑑み、本稿では昨今のカトリック青年事情にも触れてみたいと思う。

1.比較的最近の事例

(1)Youth Gathering in Tokyo

 些か旧聞に属するが、『東京教区ニュース』164号にYouth Gathering in Tokyo(略称Y.G.T.)の第1回例会(1999年5月9日、於・聖イグナチオ教会)の模様がリポートされていた。この集会に約120名の青年男女が集ったという。Y.G.T.は東京教区の青年信徒の連帯と信仰の強化を目的に企画されたイベントであり、今でも不定期開催が続いている。立案者の一人はこの手の活動に大変熱心な某司教であると目されている。

 さて、報道によれば、上記のイベントは「ミサとそこに秘められている宝に迫る」というテーマのもとで行われたらしい。このテーマそのものは素晴らしい。第一部は出席司教との質疑応答、第2部は司教司式のミサ、第3部は小グループに分かれての分かち合いとなっている。これも別段おかしなものではない。しかし、ミサについて次のような記述があった。(〈 〉内は記事の文章をそのまま引用)

 その日のミサは〈スタッフがいろいろと工夫を凝らしたもので、非常に賑やかなミサ〉になったそうである。賑やかなのは悪くはないが「スタッフがいろいろと工夫を凝らした」という表現が気にかかる。具体的にどのような工夫があったのだろう。
〈福音を役を割り振って読んだり、パワフルなバンド演奏、司教様を含めた全員での握手による平和のあいさつ、大きなホスティアを皆で分け合ったり、とお互い初めて出会ったのにも関わらず、みんな神様の愛の中で一つである、ということを実感できたミサ〉になったという。私はこれが単なる集団幻想ではなかったことを祈る。型破りのミサに皆が驚き、この奇妙奇天烈な企画が生み出す妖しげな空気に乗せられて、同じ場所で珍妙な体験を共有した大衆の間に仲間意識のようなものが芽生えたと解釈できなくもない。

(2)問題点

 近頃は信徒の「自主的参加」、「共同体への積極的参画」という概念が非常にいびつな形で表面化することがやけに多い。そのため、司祭と信徒との境界に存在すべき垣根を取り除くことが「民主的である」という錯覚に陥り、司祭職の尊厳が損なわれることもある。Y.G.T.の例で言えば、司祭がキリストの代役として告げるべき福音を聖金曜日でもないのに皆に役割分担させる無用な創意工夫がミサから厳粛さを剥ぎ取っている。又、大きなホスチアでなければならない理由も理解に苦しむ。人々の関心は目新しさに集まり、ご聖体におけるイエズスの現存から目がそれやすい。平和の挨拶のマナーもなっていない。ミサに感動した者がごく自然に相互友愛の情を抱き、結果的に握手や抱擁に時間がかかってしまったのであれば微笑ましい副産物と言えなくもないが、「ここで5分間の握手タイム」というような「企画」はいただけない。うまくムードに乗せられてしまう単純な人はよいとして、場のムードに馴染めぬ者までが必死に作り笑いを浮かべながら汗だくだくになって強制的に握手をさせられる光景は滑稽でしかない。バンド演奏というのも如何にも若者受けを狙った安っぽい企画である。後述するが、若者をすぐに当世流行の音楽と結びつける発想は貧困を極めている。私は第二バティカン公会議後の信徒である。現代典礼で育った私には、公会議前の教会を追懐するみやびな趣味はない。しかし、この催事の目的がミサに秘められた宝を探求することにあるのであれば、典礼憲章で定められたグレゴリオ聖歌の首位性と向き合う方が自然であろうし、珍奇な新手法を用いてミサの本質を追求するのは、目指すべき道と逆方向に向かっているようにも思える。

2.聖俗の区別なき刷新(改悪)と青年の反応

(1)コンサートミサ

 バンド演奏と言えば、何年か前に『カトリック新聞』の一面を飾った「コンサートミサ」を思い出す。ミサをコンサートに見立て、参加者は人気歌手のコンサートでそうするように、熱狂して席から立ち上がり、頭上で手を叩いて歓声を飛ばす。「参加者は興奮の坩堝と化した」という論調の記事であったが、私は思わず行きどころのない空しさに包まれた。

 30代半ばの世代に属する私はまだオジサンというほどには老け込んではいないらしく、私の周囲にはひと回り年齢の若いカトリックの青年男女が数多く集まる。コンサートミサについて彼らと意見交換をした時、大半の者は「安室奈美恵(筆者註・当時、人気絶頂のアイドル歌手)のリサイタルでもあるまいし…」とぼやきながら、観客総立ちのミサ(?)に立腹していた。彼らはどこにでもいるような明朗な若者であり、「教会オタク」のような暗さは微塵もない。夏はテニス、冬はスキーに熱中する者も多く、なかには週末、六本木のディスコで踊り明かす豪傑もいる。しかし、彼らは一様に「演出ミサ」に顔をしかめる。彼らと酒でも飲みながら語り合うと、驚くほど保守的な発言をするから面白い。すなわち、「教会の俗化政策は一・聖・公・使徒継承をうたうカトリック教会の退廃を招く」と言うのである。彼らは若者らしく遊びにも忙しいが、教会を聖なる場所にしたいという願望が人一倍強い。そして、外見とは裏腹によく祈る。「ミサでどんちゃん騒ぎするなどもってのほか」というのが彼らの主張の集約なのである。

(2)若者に多い正統志向

 私が日頃から接するカトリックの若者は一つの小教区に集中していない。私が友人と共に主宰するグループ「カカト倶楽部」の発行するニュースレター『ROSE ROAD』(読者は全国の老若男女約1000名)及び、私が管理人の末席を汚すインターネット上のメーリングリスト「みこころの部屋」(会員は国内外に約200名、詳細はhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~athml/)における交流が主体となっている。サンプル数としては十分であろう。そのような交流を通じて、興味深い事実が浮かび上がる。意外や意外、若い人ほど小難しい神学知識に秀でていたり、カトリックに関しては正統信仰・護教的スタンスにこだわる者が多いのである。私はこの知られざる事実を白日のもとにさらけ出したいと思う。勿論、全ての若者がそうであるとは言わない。なかには基本的な教理すら全く知らない青年も珍しくない。演出ミサは一定タイプの若者には大いに歓迎されるが、正常な神経を持つ多くの若者を悲しみの淵に沈ませるものなのである。

(3)「みんなでつくろう、元気になる宴会(ミサ)」

 演出ミサのルーツを辿れば、かつて物議を醸した「みんなでつくろう、元気になる宴会(ミサ)」に遡る。「宴会」と書いて「ミサ」とルビをふるところがなんとも嫌らしい。この青年向けミサでは、聖変化後の御血を普通のグラスになみなみと注いで乾杯し、平和の挨拶と称して皆で腕を組んで飲み合った。任侠映画の兄弟の盃でもあるまいし、白けること必定である。その後、シスターの手料理に舌鼓を打ち、歌ったり踊ったりした後、ようやく閉会したという。京都のカトリック教理センターが発行する機関誌(1989年2月15日号)はこのミサをふり返り、「共に食事をし、歌い、踊り…なんという素晴らしい集い…これこそイエズス様が望んでいらっしゃること…」と絶賛した。主催者サイドによるお決まりの提灯記事だが、Y.G.T.の感性とあまりにも酷似していて気味が悪い。

(4)レクリーエションとしての遊びは無害

 要するに「みんなで作るミサ」、「マンネリ打破」というのが昨今のトレンドになっている。しかし、「何故、楽しいことをミサの最中にしなければならないのか?」という疑問が生ずる。完全な余興として楽しい催事を教会で行うことは一向に差し支えない。人間にとって息抜きは必要である。大いに遊べばよい。年に一度のバザーでお祭り騒ぎをするのも一興であろう。青年合宿のキャンプファイヤーで夜通し踊り明かすのも悪くはない。但し、ミサ聖祭にくだらない演出を加えたり、遊びの要素を入れることだけは即刻やめていただきたい。数え切れぬほどの青年たちが口癖のようにそう言うのである。

(5)ミサをより有意義に?

 進歩主義者は斬新さに固執するあまり、レクリーエーションを余興として別個に行わうのは平凡すぎて嫌いと見える。人々が敬遠しがちな古めかしいミサ(?)に手を加え、生き生きとした典礼(?)に変えることよって祭儀を盛り上げることが、形骸化した儀式(?)に新風を吹き込む有益な手段になる、と錯覚しているらしい。この風潮は全世界的なものであり、日本の教会に特有の問題ではない。英語では、"To make it more meaningful" 
(「より有意義にするために」)というフレーズが革新派の合言葉となっている。一例として、ミサの開祭と同時にバレリーナが踊り出す、如何にもアメリカ人らしい奇想天外なアイデアなどが次々と実行に移されている。勘違いも甚だしい。

3.ノイジーマイノリティーによるサイレントマジョリティーの駆逐

(1)本稿執筆の動機

 しかし、アメリカが立派なのは、一方でそのような勢力が跳梁跋扈しているものの、他方では正統信仰を護るグループが毅然と反論することである。思想的に相対する両陣営によるディベートも盛んである。正統派陣営の手による啓蒙的な雑誌の創刊ラッシュも続いている。有名な修道女、マザー・アンジェリカのようにテレビ局まで作って正統信仰の普及に命を懸ける義人もいる。一般信徒は異なる両陣営の言い分を比較検討しながら自分の頭で問題点を整理して熟考することができる。その点、日本人は周囲に波風を立てたくないという心理が働き、悪習に対しても、陰でこそこそ批判するだけで、公の場で堂々と反論しようとしない。そのため、芳しくない風潮にますます拍車がかかり、思慮分別を欠いた新しい試みがあたかも信徒全体に支持されているかの如き外観を呈するのである。私はこれに耐えきれず、重い腰を上げ筆を執った。和をもって尊しとする思想は日本人の美徳であろうが、付和雷同主義に陥った場合、誇るべき美徳も忌まわしき不徳となる。

(2)危険思想の共通点

 今、猛威を奮っている進歩的典礼改悪にしても、幸いにして日本では一部の人が扇動しているだけにすぎない。確かに彼らの陰謀(当時者は善意でやっているものだが)はボクシングのボディーブローのようにじわじわと効き目を増してくる。教会が被るダメージは大きい。典礼破壊とセットになって教理上の誤謬も白昼堂々と広まっている。「悪魔は実在しない。悪魔は人間の心に存在する邪悪な想念の象徴にすぎない」、「キリストの復活は弟子たちの心に起きた偉大な宗教体験の聖書的表現であり、実際に復活した訳ではない」といったヒューマニズムや合理主義に毒された謬説が神の真理を覆い隠し、正論を蹂躙しつつある。これらの異端的諸説の大半は聖座からお咎めを受けた神学者のセオリーの受け売り、ないしはそれにアレンジを加えた「個人神学」である。これらの異端的な神学は典礼破壊と非常に相性が良く、「伝統への挑戦」という共通理念で相互に結びつき、カトリック教会を内部から崩壊させてゆく。危険な思想の提唱者は実際は見た目よりは少数であるが、とにかく彼らはうるさい。口数の多いマイノリティー(少数派)が謙遜ゆえに反論を控えるマジョリティー(多数派)を制圧している図式がこの国においては認められよう。キリストの十字架を縦、横の軸に分け、縦軸を人間と神との関係、横軸を人間同士のかかわり合いと説明する方法が昔からあるが、昨今は横軸のみを強調し、縦軸を軽視する風潮が目立つ。秘蹟や尊い信心業は「縦軸的側面」として敬遠され、一方、福祉活動のような社会的運動は時宜に適ったものとして必要以上に推奨される。演出ミサは「横軸的側面」の具象化であり、「出会い」、「感動」、「一致」などをテーマにしたものが多い。いずれの語も不特定多数の人々を心地良い気分に誘うが、抽象的で実体が掴みにくい上、宗教的な深みに乏しい。神に示すべき敬意をないがしろにして、隣人愛のみを異常に強調する手法はモダニズムから生まれた危険思想の共通点である。このような思想は教会の日常習慣においても反映され、跪き台撤去運動などにシンボリックに現れる。演出ミサの背後にもこのような黒い影がある。

4.秋田の聖母のメッセージ

 故伊藤庄治郎司教(前新潟教区長)が1984年4月22日に司教書簡で公認された秋田の聖母にまつわる一連の出来事は、ご周知の通り、今では世界的にも相当な認知を得ている。秋田の聖母がシスター笹川に伝えたとされるお告げの中には「祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり…」という警告が含まれていた。まさに今、その通りになっていることに気付く。このメッセージが今から約四半世紀前に告げられたことに思いを馳せれば、「教会の母」なる聖母マリアが愛する子らへの母心から、来たるべき将来において典礼や教理が乱れることになっても、挫けずに正しい信仰を貫くように、と我々を励ましているようにも思われる。(秋田の聖母に関しては、先般、エンデルレ書店より出版された安田貞治神父著『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』を参照されたい。宅配注文は、エンデルレ書店TEL03−3352ー2481まで)

5.ミサの本質

(1)祭壇とステージ(舞台)との混同

 毎年、東京カテドラルで開催されるインターナショナルデーには私も時折参加している。インターナショナルデーは国籍を越えたカトリック信徒の集いであるため、多言語でミサが捧げられる。「各国語で祈る」という趣旨は悪くはない。むしろ、カトリック教会がユニバーサルなものであり、国家や民族、言語や文化の違いを超越してそびえ立つ印象を強める。カトリックの普遍性を再認識するために、このような催事は積極的に推進されて然るべきであろう。欲を言えば、多民族が一堂に会するこのような機会にこそカトリックの共通言語たるラテン語を用いるべきではないか。今の時代はこの方がかえって斬新に映るはずである。さて、国際的なミサというアイデアは素晴らしいが、ここにも演出ミサが仕組まれているように思われる。たとえば、東南アジア人のダンサーが登場して、歌に合わせて祭壇上で華麗な舞いを披露する。それに対する参加者の拍手喝采はミサの趣旨を履き違えたお手つきである。ミサ中の歌は神を賛美するためのものである。神への賛美の気持ちを人々は聖歌に託す。聖歌も祈りも全ては神に捧げられる。我々は決して観客ではない。神こそが唯一の観客である。我々の信仰の表明を見て喜ばれた神が我々に拍手を送るのである。ミサ中に現れるシンガーやダンサーが技巧的に優れているという理由で我々が拍手をするのは本末転倒以外のなにものでもない。祭壇はステージではないのである。

(2)胡散臭い感動
 
 インターナショナルデーのミサでは例年、閉祭時に「アーメンハレルヤ」を歌って終わる。ダイナミックなメロディーに合わせて共同司式をした何十人もの司祭団が長い列を作り、しんがりに枢機卿が歩く姿は実に絵になる。しかし、熱狂した会衆が司祭団に口笛を飛ばすのは妙な行為と言えないだろうか。この種のミサにおいて、主催者はあの手この手を使って、会衆をムードに乗せよう努力する。巧妙に仕組まれたプログラムによって、次第にミサがショーと化す。はじめは厳粛な気持ちでミサに与っていた信徒も知らぬまに主催者の術中にはまり、閉祭の歌を歌う頃には、いわゆる「興奮の坩堝」と化し、主催者は「皆が一つになった」と単純に喜ぶ。だが、「作られた感動」は絶対に永続しない。

 世間を騒がすマルチ商法の説明会では、必ずと言ってよいほど胡散臭いプレゼンテーションに感動する単純な人が餌食となる。しかし、オーバートークで塗り固められた巧妙な話法は、一時的に人を酔わせるが持続力がない。メッキが剥がれてきた時に騙された人も目が覚めるのである。演出ミサにもある種のマインドコントロールが仕組まれている。

(3)キリストの十字架の再現

 形の乱れは心の乱れを引き起こす。ろくでもない創意工夫に走るあまり、最も重要なことが置き去りにされる危険を警戒しなければなるまい。いくら外観的に演出を凝らしても、ミサの本質が無視されれば、強烈な空しさが残るのみである。ミサはキリストが制定した聖体祭儀である。ミサはキリストの十字架の再現でもある。ミサのクライマックスは飽くまでも聖変化である。キリストは十字架上の死を通して、罪にまみれた人類を救い、死を通して世に命をお与えになった。ミサを通して、キリストはもはや血を流すことなくパンとぶどう酒と司祭に与えた権能を用いて、実体的には十字架上の犠牲(人類の罪の贖い)と完全に同一の奉献行為を再現することができる。この偉大な神秘に人々の目を向けさせる努力を払わず、妙な演出によって一体感を醸成する人為的手法はドラマのように儚い。聖霊は人々が静かに祈るところにそっと働くのである。余計な演出はそれを妨げる。

(4)罪のない一般大衆

 ダンサーの華麗な舞いに酔いしれて拍手を送るお粗末さは、厳密に言えば、無知からくる信徒の過ちであるが、目前で見事なダンスを披露されれば、誰でも条件反射的に拍手をしてしまうものである。少なくとも私は拍手をした一般大衆を責める気にはなれない。このようなミサを企画する側の責任が第一に追及されるべきであろう。場違いな見せ物には人々の心を散漫にさせミサの本質を忘却させる恐ろしい力がひそんでいる。

6.信徒としての対処の仕方

(1)抗議の心得
 
 大規模な演出ミサはそれほど頻繁にあるものではないが、司祭の思いつきで行われる即興的な演出ミサは日常茶飯事である。ある小教区のミサで、司祭の説教に合わせて全く意味不明の寸劇が演じられたことがあった。これが子供騙しのようなものに感じられ、不快に思ったのは私だけではないと思う。くだらない寸劇までは我慢するとして、主日のミサでありながら第二朗読が勝手にカットされたのにはまいった。私はミサ後、司式司祭に抗議した。司祭が明らかな過ちを犯した場合は信徒の身分でも声を上げるのが正義である。但し、感情的な口論にならぬように細心の注意を払うべきであろう。抗議に際しては問題点を論理的に指摘するだけで十分である。司祭の人格まで攻撃するのは罪深い行為である。

(2)教会憲章による理論的バックボーン

 教会憲章4―37(信徒と聖職位階の関係)には、聖職者をサポートする信徒の務めが明文化されている。かなりの長文ゆえ割愛させていただくが、信徒から司祭への勇気ある進言が信徒の権利であり義務でもあること、又、聖職者は信徒の正しい助言を賢明に受け入れることにより教会を発展させるというビジョンが要旨として記されている。興味のある方は是非ともご参照されたい。成熟した信徒ほど「教導職への従順」を理由に聖職者に直言することを躊躇する傾向が日本にはあるが、信徒の助言によって聖職者も成長することを教会憲章は示唆している。

7.若者の動向

(1)二つの潮流

 さて、どの小教区でも青年の減少が深刻な問題となっている。しかし、その内情を正確に解き明かす者は少ない。現代のカトリック青年は本当に教会嫌いになってしまったのだろうか。私にはそうは思えない。ベテラン信徒も真っ青になるほど宗教的情熱に燃え、日々、研鑽に励んでいる青年はいくらでもいる。私は典礼問題などを研究するにあたり、日頃から様々な資料を収集しているが、多くの青年たちから有力な参考文献の提供を受けている。ヴァティカン典礼省の法令などを「茶髪のお兄ちゃん」風の若者から提供されることも珍しくない。彼らの中には語学力やインターネットを駆使する能力に長けている者も多く、むしろ熟年の先輩方よりも頼りになる一面もある。賢明な読者諸兄はすでにお見通しのように、昨今のカトリック青年は完全に二極分化しているのである。

 若者の小教区離れには二つの潮流がある。一般的に言われるように、物質文化の虜となり、もはや抹香臭い宗教には一切の関心がなくなってしまった若者も多い。しかし、もう一つの流れは教会上層部の方々に完全に見落とされているように思われる。少なからぬ数の若者が「毛針で魚を釣るような舐めたやり方」に呆れ返り、教区や小教区の指針に批判的になっているのである。この件に関して、私は十分すぎるデータを得ている。第二の潮流を形成する若者は必然的に小教区の枠を飛び出し、黙想会や聖地巡礼などで知り合った仲間との連帯を深め、自発的な活動を展開する傾向がある。彼らは自分たちで指導司祭を見つけてきて、教区や小教区に縛られない自由な活動を楽しんでいる。しかし、諸々の活動は口コミを通して広がることはあってもカトリック雑誌などで宣伝されることはまずない。このような動きも青年の教会離れの一つかもしれないが、正確には「小教区離れ」と言うべきであろう。彼らは小教区では不可能な活動を小教区の外に求めているのである。

(2)カトリックの伝統を愛する若者

 上述の活動の一例として、月に一回、都内某所で開かれる「聖体礼拝とロザリオの集い」がある。今や「古くさい信心業」という不名誉な烙印を押されてしまったロザリオをこよなく愛する者が水を得た魚のようにこの会に集う。ここに集う若者の参加の動機は人それぞれであるが、「最近では聖体礼拝や聖体降福式に与れる機会が少ないから」、「この種の活動を小教区でやりたくても許可されないから」というのが圧倒的多数を占める。この会ではミサ中に時々、グレゴリオ聖歌を交えることもあるが、どこで覚えたのか、見るからに当世風の若者が喜々として初々しい歌声を聞かせてくれる。多くの青年たちに見られるこの伝統回帰の現象が象徴的に物語るものは何か。ここに謎解きの鍵がある。

(3)隠れた差別への反発

 毛針で魚を釣るような方法は青年を愚弄している。たとえば、「現代の若者には真面目な宗教的な話は通じない。適当に遊ばせながら緩やかな成長を見守ってやろう。さもないと、古めかしい教えに辟易して教会から離れてしまうだろう」という態度は一部の青年にしか通じない。「連中にはクリスマスパーティーでビンゴゲームでもやらせておこう」、「フォークミサでギターでも弾かせてやれば喜ぶだろう」というような侮蔑的な雰囲気に新進気鋭の若者は非常に敏感である。このような風潮を不快に思う若者は小教区の青年会に顔を出す気も起こらない。遊びを取ったらほとんど何も残らない活動など興味すら湧かないのである。そもそも「若者だからフォークミサを好む」という発想も明らかに間違っている。日頃は騒々しい音楽を好む現代青年ではあっても、一週間の疲れを背負い込んで教会に行き、そこでも似たような音楽を聞かされてはたまったものではない。フォークミサがいけないと主張するほど私は狭量ではない。なかには素晴らしいものもある。しかし、「若者にはフォークミサ」というワンパターンの発想に嫌気がさしている。ちなみに若者向けのミサではカトリックとは無関係な楽曲をとりいれるケースも見られる。たとえば、ひと昔前にヒットした映画の主題歌、「翼をください」が閉祭の歌として用いられる。同様にマイケル・ジャクソンらが歌った"We are the world"なども使われる。しかし、歌謡曲をミサで用いること自体が非常識であり、このような風潮に憤懣やるかたない青年も多い。「俺が教会に求めるものはこんな安っぽいものではない。こんなことをさせられるために俺は洗礼を受けたのではない!」という隠れた差別への反発が彼らの心のうちにはある。教会で遊ぶのも結構だが、けじめくらいはつけなければ話にならない。「教会って堅苦しい所じゃないよ」と友人を誘いたい気持ちはわかる。しかし、聖なる要素がどこにも見出し得ぬ教会には魅力のかけらもない。好奇心に満ちた未信者の期待を裏切るだけである。

(4)まともな信仰教育の欠如

 第二ヴァティカン公会議以降、時代は「聖職者が信徒に教え込む文化」から「信徒が自由に学ぶ文化」に変遷していったと主張する人々が少なくない。その論法の是非は別として、教会が正当な権威までを放棄し、要理すらもまともに教えず、信徒の自発的学習のみに頼る風潮は病んでいる。若者の中には、初歩的な信仰知識もなく無邪気に遊んでいるだけの者もいる。その一方、教会内でまともな信仰教育が受けられないことを嘆きながらも、独学で懸命に学ぶ者もいる。大きなカトリック書店に行けば、真剣な表情で良書を探し求める大勢の若者の姿に気付くであろう。このように同世代の青年信徒を両極端に二分化させてしまった責任は残念ながら教会にある。平等の美名のもとに平気で未信者を日曜学校のリーダーに起用したり、弱腰になって要理教育を施さず、仲間同士の友愛的連帯のみに力点を置いた青少年教育がこのような悲劇をもたらしたことは論を待たない。

8.まとめ

 このたびの執筆にあたり、たまたま俎上に乗せたY.G.T.やインターナショナルデーに対して私は如何なる個人的遺恨も抱いていない。素晴らしい一面もあることは十分に認める。いずれの催事も試行錯誤を繰り返しながら尚一層の発展を遂げてほしいと心から祈っている。論説の必要からとはいえ、辛辣な批評がこれらに心血を注いだ関係者の心証を害したとすれば慎んでお詫び申し上げる。私は本稿を通じて演出ミサの危険性を指摘しつつ、それがかえって時代錯誤であることにも言及した。又、概して小教区では目立たない、信仰に燃える多くの若者たちの姿を紹介した。これだけが唯一の目的であれば長々と書く必要もなかったが、敢えて長文構成にしたのは、結語に説得力を持たせるためであった。本稿を通じて私が最も訴えたかったことを最後に記して拙論を終えたいと思う。

【結語】
日本の教会はマーケティングを誤っている。21世紀に突入し、少なからぬ人々が物質的、刹那的な快楽に倦怠感を抱き始めている。真の神を知らぬ国民ではあっても、潜在意識のレベルでは、霊的渇望を満たす何かを希求している。このようなご時世であるからこそ、カトリック教会は旧来の価値観を堂々と表明すべきであり、そうすることで多くの迷える羊のニーズに応えることができる。しかし、昨今の教会は燦然ときらめくカトリックの神秘性を自らの手でことごとく排除し、霊性のかけらもない活動を次々と行い、世俗に迎合しすぎている。水割り信仰路線を推し進め、妥協に妥協を重ね、かえって大衆から敬遠されている。本格的な高齢化社会を迎えようとしている現在、青年を大事にしない教会に明るい未来は期待できそうにない。この点については、私も演出ミサの推進者らと意見の一致を見るが、現代カトリック青年の実態分析に関しては、既述の如く徹底調査に裏打ちされた別の結論に到達している。聖なるものへの憧憬、これが時代のキーワードである。このことを、本誌をご覧になっておられる司教方には確信を持って申し上げる。

 ディスカウントショップで手に入る安物商品は便利ではあるが、決して人々を魅了しない。自分にはとても手の届きそうもない高額商品に人間は憧れるのである。前者は俗なるもの、後者は聖なるものの比喩である。この発想に立って、今こそ日本の教会は真剣に人々のニーズを正確に把握し、より適切な分野で改革を敢行し、カトリック教会が2000年にわたって継承してきた霊的遺産をあますところなく人々に伝える努力を惜しまないでいただきたい。これが私の願いなのである。(了)

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