ポストモダニズムの典礼

 

                           川 崎 重 行
                           「ヴァチカンの道」第42号 Dec.25.2003

はじめに】

カトリック通信社ZENITは2003年7月1日付配信の記事で、典礼学の権威、Dionisio Borobio氏とのインタビューの概要を各国に流した。「ポストモダニズムの典礼」という見出しのその記事には、目新しいもの、刺激的な内容は何ひとつ含まれていなかったが、本物志向の強い方々には貴重な資料となるに違いない。ある方々にとっては、今まで胸の奥にしまいこんでいた小さな個人的自信が客観性を伴った力強い確信に変わる契機となるかもしれない。かくいう私は全く違うことを考えていた。これを自ら邦訳して、2年ほど前に寄稿した小論、「演出ミサに見る危険性と青年の教会離れ」(本誌34号)でリポートした典礼崩壊現象について、改めて読者の審判を仰ぎたいという衝動に駆られたのであった。
Borobio氏はバルセロナ典礼司牧センターから出版された『 文化・信仰・秘蹟 』の著者であり、教皇庁立サラマンカ大学にて典礼と秘蹟の分野で教鞭をとる。同氏の著作はスペイン内外の神学校の教材となっている。尚、翻訳に際しては、多少ではあるが、言外に含意される微妙なニュアンスを許容される範囲で補う作業を必要とした。欧米語と日本語との間に立ちはだかる文化的、言語的背景のギャップは「大根訳者」を立ち往生させる。そのまま素直に訳しただけでは意味が全く通じないことも少なくない。もし読者の中にこのインタビューを過去に外国語で読んだ方がいらっしゃり、以下の邦訳に多少の違和感を覚えるようなことがあるとすれば、それは訳者の能力の至らぬところであるとしてご容赦いただきたい。 
 
1.インタビューの再現

Q. あなたは典礼をどのように信徒に説明されますか?
A. 「儀式」、「集い」、「祭礼」というカテゴリー別に説明を始めることが可能でしょう。カテキズムがそうであるように、典礼的な視点のみならず、人類学的手法をも用いて、典礼の構成要素を明確にするのです。何が祝われるのか、誰が祝うのか、如何に祝うのか、いつ祝われるのか、どこで祝われるのか、と。 神が人類を愛し続け、救いの手をさしのべ続けるという真理を賛美と感謝のうちに認識するキリスト教共同体の儀式というものは、典礼行為を通して、教会において挙行されるのです。

Q. 典礼の儀式的意味は失われてしまったのでしょうか?
A. その逆説も成り立つのではないでしょうか。第二ヴァティカン公会議以降、共通の行為、集会への参加、共同体の儀式と解されるもの、これらは典礼の儀式的意味としては、むしろ強化されたとも思います。一方、我々は常に形式至上主義、ある種のリベラリズム、典礼土着化主義の危険に脅かされている、というのも真実です。理想的な典礼儀式というものは常に不確かなものです。典礼の進歩というものはいつの世にも欠くべからざるものなのです。
Q. 宣教か秘蹟かという優先事項をめぐる論争は典礼学者と司牧主義者との間で今でも進行中なのでしょうか?
A. それは宣教、秘蹟という言葉の解釈にもよりますが、「宣教か秘蹟か」、「教理か典礼か」、「礼拝か日常か」、「大衆中心かエリート中心か」といった二者択一的なアプローチに由来するかつての論争の大部分はすでに克服されていると断言して差し支えないでしょう。全ての宣教は秘蹟的であり、全ての秘蹟は宣教そのものなのです。  本来のアプローチは二者択一的なものではなく、相互補完的なものです。

Q. 儀式の多くは信徒の心に響きません。この状況はどのような努力で打開されるでしょうか?
A. この点について即効性のある解決策はありません。仮に儀式を執り行う人々、とりわけ司祭に焦点を当てた場合、いけにえを捧げるという行為をより上質なものに変える必要が認められるでしょう。つまり、十分な準備、祝典を司るに相応しい心構え、ご聖体を授ける者としての資質等があげられるでしょう。会衆に焦点を当てれば、我々は典礼的イニシエーション、能動的に参加する態度、典礼に秘められた象徴を解釈する能力等を向上させる必要があります。さらに儀式の媒介となるもの、すなわち、言葉と「しるし」に焦点を当てれば、もう一つの留意事項が付け加えられます。それは可能な限り、典礼に用いられる言葉や「しるし」を改善、順応させるということです。

Q. 典礼の領域において、ポストモダニズムによる革新はどの程度行われたのでしょうか?
A. その問いに対する回答には、ポストモダニズムなるものの解釈の明瞭化、及び文脈、状況の識別が要求されます。とはいえ、ポストモダニズムのメンタリティー(精神性)の底流には、理想の低減、自由と個人主義の高揚、「人知」への傾倒、或いは宗教的拡散、伝統や規範に対する拒絶といったものが流れていると言えるでしょう。これらの精神は全て「束縛のない宗教」を目指し、歴史を通じて構築された正統的儀式とそこから生まれた相関的調和の美を拒絶する方向に進みます。そして、必然の成り行きとして、典礼儀式そのものが持つありがたみとその典礼に参加する喜びの感覚を狂わせるという反動を呼び起こします。

Q. 形式至上主義に陥ってしまうことを避けるにはどうすればよいのでしょうか?
A. はっきり言えることは我々自身が儀式の一部であり、我々は儀式を必要とするということです。これが儀式の本質なのです。儀式の中に問題があるのではなく、儀式に臨む我々の行為のうちに問題があるわけです。儀式に臨む我々の態度のうちに、儀式が影響を及ぼす我々の日常のうちに・・・儀式に秘められた深い意味を正しく解釈しないことが問題を生むのです。 我々は儀式を必要とします。けれども、儀式は時として危険なものにも成り得ます。我々が儀式を悪用したり、本来の意味を正反対に変えてしまったり、儀式を何かの道具にしてしまう時に危険は生じるのです。そして、この危険は実際に司祭の上にも信徒の上にも起こり得ます。信仰、誠実、真理、向上心、自己を完全に神に委ねるという謙虚な心によってのみ形式至上主義は回避できるのです。 

2. 所感

 さて、Borobio氏に「日本典礼」の診断を依頼したら、果たして如何なる所見が返ってくるであろう。胸がワクワクする。しかし、それはかなわぬ夢。ここからは、診断者としては役不足であるが、私がこのインタビューから感じたことを昨今の出来事と関連づけながら、ストレートに論じてみたい。典礼崩壊現象の枝葉の部分まで言及すればきりがないので、このたびは根幹部分の問題の中から凡人の目にも明らかな事柄のみを抽出してみる。

(1)典礼に用いる言葉やしるしは健全な発展を遂げているか

 ここでいう言葉とは文脈から見て明らかなように、ラテン語や自国語といった言語のことを指すのではなく、典礼に相応しい、厳密、的確、崇高な言葉遣いを意味するものと思われる。もっとも、思慮を欠いたラテン語排斥の風潮が日本の教会に進歩ではなく退歩をもたらしたことは否めない。しかし、それについての考察は、より専門的な知識を備えた識者に譲るものとする。ここで問いかけたいのは、ミサ中に用いる言葉である。聖書朗読の後、本来は「主のみ言葉」(朗読者)、「神に感謝」(会衆)とワンセットで唱えられるはずの言葉が如何なる経緯を経てこうなったかは不明であるが、「神に感謝」、「神に感謝」というオウム返しに変わり、近年では会衆による「神に感謝」さえ省略する小教区が少なくない。沈黙を美とする日本文化に適応させたつもりなのかもしれぬが、聖書を「主のみ言葉」であると宣言することになんのためらいがあろうか。それに対して感謝の意を表する謙虚な姿勢になんの罪があろうか。

何事も省略を好むのは日本の教会の特徴である。基本中の基本の祈りである「天使祝詞」の口語訳ひとつとっても「ご胎内」、「女のうちにて」等、重要語句が欠落していて、本物からかけ離れている。純金が18金になってしまった。(これについては本誌35号に寄稿した小論、「聖母マリアの復権を願って」参照)聖体降福式における賛美の連祷(天主は賛美せられさせたまえ・・・)は「神は賛美されますように・・・」という稚拙な口語訳ができたにもかかわらず省略されることが多い。神に対して唱える言葉としては高尚さに欠ける口語訳をわざわざ作っておいて、それすらも用いないという精神構造は一層病的であると言えないだろうか。そもそも特殊なグループにでも合流しない限り、聖体幸福式にあずかれる機会すらない。今では、大半の信徒が聖体幸福式を見たこともない。病的という言葉は決して言い過ぎではないと思う。

「しるし」も同様に省略されることが多い。福音朗読の前に額と口と胸に十字を切る仕草を廃止してしまった小教区も珍しくはなくなった。一説によれば、このゼスチャーはフランスのルイ王朝が考案したものであり、日本人に模倣の義務はないとのことであるが、そもそもルイ王朝発端説の裏づけは果たして十分なのか。某修道司祭は海外留学から帰国して久々に日本でミサを立てた時、「主に栄光の時の十字は切るな」と長上から命令されたという。私はそれをご本人の口から聞いた。神父は納得がいかず、「それは一体どういうわけか」と聞き返したが、「教区の典礼委員会の決定だから従え」と一蹴されたそうである。当然、委員会の決定であれば、なんらかのドキュメントが残っているはずである。神父が「では、その決定事項を明文化したものを見せてほしい」と食い下がったところ、「そんな文書はない」という不思議な回答が返ってきたという。これではそのような決議が公式に下されたことすら疑わしく、暗澹たる気持ちになる。ちなみに、その司祭は従順を誓った身であるため、以後、不本意ながらも十字を切る仕草を省略しているという。典礼破壊の嘆かわしさに涙を流す人は決して信徒だけではないのである。

他にも跪き台の撤去、司祭が聖変化前に手を洗う習慣の不徹底など「しるし」にかかわる問題点は数多い。このようなごく基本的なルールが無視されている現状を嘆いた聖座は数年前に「ローマミサ典礼総則」を発布したが、悲しいかな、「そんなものはくそ食らえ」と言わんばかりの強硬姿勢を我が国の教会は貫いている。今、外国人信徒の間では、「日本の教会はヴァティカンからの完全独立を本気で狙っている。もはや新興宗教だ。これはカトリックの歴史を汚す由々しき事態だ」という不名誉な噂が絶えず出回っている。それも一人や二人ではない。数え切れぬほどの人々が皆同じことを言うからたまらない。しかも冗談ではなく本気である。「そんなことは有り得ない。日本の教会を馬鹿にするのもいい加減にしろ」と頑固一徹に司教団の弁護に回る私であるが、純情一途な彼らの危惧に対して、このような応対しかできない自分が情けない。

東京教区は溢れかえる外国籍の信徒のケアを目的に積極的な対策に打って出た。具体例の一つを示せば、ポルトガル語やタガログ語の話せる司祭を外国から招聘し、それぞれの言語を話す信徒を対象としたミサを行っている。この努力は大いに評価すべきであろう。しかしながら、外国語のミサというものはそう頻繁に行われるものではない。イレギュラー的に行われるこれらのミサは、司祭の数が十分でなければ、どうしても特定の場所に限定されたものとなる。多くの外国人にとって、言葉はわからぬまでも、やはり日本語のミサが頼りなのである。そのミサの最中に本来あるべき「しるし」がなければ、日本語を知らぬことも手伝い、孤独感はさらに強まるばかりである。これでは信仰を同じくする異郷の友との心の連帯も持てない。頑張ってかなりのレベルの日本語を習得したとしても、不適切な言葉が頻出したり、重要な言葉が抜け落ちているようでは、落胆は隠せないであろう。ミサ中に「あなたをおいて誰のところに行きましょう」と言うのは日本だけである。「賛美と感謝を捧げましょう」も厳密には「賛美と感謝を捧げることは正しきことなり」でなければならない。司祭が唱えるドクソロジーを信徒にも唱えさせるのもおかしい。典礼上の意味を間違って解釈しているとしか思えない。今、日本の教会は山積する問題に気をとられすぎて、最も大切なものを見失ってはいないか。最重要のことに手を抜いて、目先の不安を払拭すべく改革やらプロジェクトをスタートしても立脚する基盤が貧弱なもの、本質を逸脱したものであれば、全てが失敗に終わる。これが歴史の教訓である。

(2)儀式の意味をとり違えていないか

 Borobio氏は「かつての論争はすでに克服された」と主張する。たしかに世界的な規模で眺めれば、まだ多少の余波が混乱を残しているとはいえ、時代は確実にかつて火花を散らした保守派VS進歩派の論争の枠組みから脱しつつある。しかし、我が国においては、Borobio氏が頭の中で思い描く20年前、30年前の教会情勢と大差ないことを指摘しなければなるまい。大司教が主司式を行ったミサでホームレスの人々の履物が聖なる祭壇の上に置かれ、ミサの途中で子供たちのバンブーダンスが披露されるというお粗末ぶり(大阪・阿倍野教会)を教区報が賞賛記事に仕立ててしまう。これほどレベルが低い。この「演出ミサ」は典礼の本来の目的を見失ったものの代表と言える。(「演出ミサ」という用語は私が勝手に命名したものであるが、最近では多くの人々によって用いられているため、今後は敢えてカギ括弧にくくらず、普通に用いることにする)


ホームレスの靴やサンダルを祭壇に乗せる行為やミサ中のバンブーダンスのアトラクションからは「教会は弱き者の味方」、「形式至上主義のミサよりも規則にとらわれない自由なミサを」、「これぞ人間の素直な信仰表明」というメッセージが聞こえてくる。ここには「典礼VS司牧」という本来対立するはずのない概念を無理やり対立させ、一方を咎め、他方をひいきする精神が見てとれる。これでは両者が「相互補完的なもの」として認識される日がまだまだ当分先のことであるとしか思えない。これは大阪教区に限った話ではない。

東京教区が小教区統廃合計画の理論的支柱とすべく発布した冊子(「新しい一歩」、「福音的使命を生きる」)は、こともあろうに、至るところに詭弁を弄した子供騙しの文章でもって、時代遅れの誤謬を教区民に行き渡らしてしまった。そこでは司牧の対立概念として宣教が登場し、なんと司牧が宣教の邪魔をしているかのような扱われ方をしている。赤羽根恵吉氏(本誌編集責任者)の英断により、本誌読者にはすでに送付されたが、赤羽教会の信徒組織が作成した教区統廃合への異議申立書は統廃合プロジェクトチームの欺瞞を暴き、反論の余地のない見事な論理で時代錯誤的な過ちに警鐘を鳴らすものであった。これが大司教に提出された。しかし、案の定、プロジェクトチームから反省、熟慮、改案の兆しは見られず、今でも教区の報道姿勢から感じられるものは扇動、洗脳、執着である。余談であるが、この異議申立書を大量に印刷するにあたっては、かなりの経費が必要とされた。そのために、日本の教会の将来を憂える篤志家が身銭を切ったことをここに付記しておきたい。

典礼の精神を見失うことにより、教会は全ての分野で次々と過ちを拡大してゆくことの証左をここに見る思いがする。そろそろ典礼の話題に戻そう。「儀式を悪用したり、本来の意味を正反対に変えてしまったり、儀式を何かの道具にしてしまう時に危険は生じる」とBorobio氏は指摘する。これだけでは抽象的な表現でわかりにくいが、前述の例を用いればこうも言えないだろうか。
< 阿倍野教会では、ホームレスの人々との心のふれあいを前面に出すイベントが企画され、ミサはそのための道具にされた。ミサという神聖な儀式が悪用され、罪のない無邪気な子供たちがバンブーダンスの発表会をやらされる羽目となった。これにより企画者は共同体の持つアットホームな温もりを演出することに成功した >
企画者に悪意がないことはわかる。きっと人間的には人格者であろう。しかし、結果は結果である。勿論、虐げられている人々を守るのは教会の役割であるし、教会は我が家の如く家族的な雰囲気に満ちている方が良い。これについては全く異論がないが、ヒューマニズムに走るあまり誰かを置き去りにしてはいないか。それは神様である。この基本的な過ちがその他の演出ミサでも性懲りもなく繰り返される。

演出ミサにおいて、典礼音楽を奏でる楽器は「オルガンでなくギター」が相場である。これが「伝統よりも当世風のものを」という単純な発想に由来することは想像に難くない。戦後生まれの私にギターに対する反発はない。グレゴリオ聖歌の首位性が典礼憲章によって明確にされている以上、グレゴリオ聖歌の演奏に適したオルガンこそが典礼においては王道であると思うだけであり、ギター使用のミサにケチをつけたことは一度もない。ところが、最近、非常に些細なことを発端にギター特有の危険性に気づかされる出来事が起きた。

私の通う教会では、月に一度、外国人を対象とした英語のミサを行っている。このミサでは、普通の人に馴染みのない歌ばかりを収集した聖歌集を用いるため、聖堂にまともな歌声が響くことはない。皆が歌いやすいようにと配慮して、世話人がいつも歌入りのカセットテープを流すのだが誰も追従できない。「カセットテープ聖歌隊」という皮肉まで流行る始末で、なんとかしなければならないという焦りが皆にあった。そんな矢先、各地の教会を巡り歩いてギターで典礼奉仕をしているというバンドグループとの出会いがあった。渡りに船とばかりに担当司祭がさっそく彼らに協力を要請した。それがのちに物議を醸すことになろうとは誰ひとりとして夢にも思わぬことであった。ついにその日が来た。彼らの演奏技術は非常に優れていたが、時折、聴衆の注目を引くような特殊な小技をよく使う。文章で表現するのは至難だが、曲の要所要所でポロロ〜ンと余韻を残すような奏法を用いるのである。ミサ曲というよりはゴスペルソングに近い印象を受け、何か違うのではないかという疑念が脳裏をかすめたが、「ヴァチカンの道」の読みすぎによる偏見にすぎないと思い、そのことは誰にも話さないでいた。後日、そのミサの反省会が行われる運びとなった。まず口火を切ったのはアメリカ人の男性であった。「あれは完全にポピュラーソングの演奏法だ!」と彼は激怒した。次に国籍は知らぬが、恐らくイギリスかカナダの人とおぼしき女性が「ミサはパフォーマンスではないのよ!」と叫んだ。すると、今度はオーストラリア人の男性が「そもそもお願いしたことが間違いだった!」と怒り狂った口調で喚き散らした。とりあえず、その場を丸くおさめたいという日本人の習性が顔を出し、私は「まあ、そんなに熱くなるな。善意のボランティアに対して冷たすぎる言い方じゃないか」と一同を諭したが、完全に活火山と化した面々は顔をマグマのように真っ赤にしたまま、その問題を果てしなく論じ続けた。ただ一人、クールなアメリカ人がいて、「テープの聖歌隊よりは上等だろう」とぼやき、一瞬の笑いを誘ったが、その冗談をもってしても、憤慨にいきり立った人たちの頭を冷却する効果はなかった。

私には退屈な議論に感じられたが、ひとつだけ感動したことがあった。これはこんな些細なことでも真摯に論じ合う彼らの姿勢である。なんの悪意もないであろう青年(バンドマン)を槍玉にあげてののしった彼らの品位のなさは問題であろう。しかし、これしきのことで何時間も議論をする情熱には心から脱帽した。日本の演出ミサでこの程度のことが行われても、誰も文句は言うまい。そもそもこのようなことに異常を感知する感受性が乏しいと思われる。このギター論争はついに収拾がつかず、散会後はレストランに会場を移し、夕食を共にしながらの延長戦に入り込んだ。私が根負けした頃、最初にこの議論に火をつけたアメリカ人が興味深いことを語ってくれた。

アメリカでも一部の刷新主義者の手によって典礼音楽の改悪が着々進んでいるらしい。最近生まれた聖歌の歌詞には「私の民よ、私はあなたがたを愛する。さあ、私のもとに集いなさい」というようなものがあるという。これは神の気持ちを歌にしたものであり、歌詞の内容は美しいが、「典礼上、不適切だ!」と彼は言った。神に賛美を捧げるミサで、神に成り代わって神の気持ちを人が歌うのはおかしいという意見である。全く正論であろう。それとは少し意味合いが異なるが、聴衆の注目を惹きつける演奏法はコンサート的なものであり、運悪く拍手でも起これば、バンド奉仕者はミュージシャンという立場に変身し、神に捧げるべき賛美の歌を人に捧げてしまうことになる。いずれのケースも「正しい方向」を見失ったものであり、Borobio氏の言うところの「本来の意味を正反対に変えてしまうこと」に相当するものと思われる。


3. 問題はどこに?

Borobio氏は「問題の所在は儀式の中にあらず、儀式を正しく理解しない我々の側にあり」と説く。この言葉が全てを言いくるめているように思う。以前、東京神学院の落成ミサに参加した折、不吉な予感が的中し、思った通りの事件が起きた。司会者が「本日のミサでは、福音朗読の時にご着席のままでお願い致します」と言ったのである。このミサには建築関係者をはじめ、カトリックでない方々も功労者として招待されていた。お客様を立たせるのは失礼であるという遠慮が働いたのであろうか。森司教を筆頭に何十人もの聖職者によって捧げられたこのミサには何百人もの人々が参集した。皆、首をかしげながらも司会者の案内に従っていた。私は皆が座っている中、ただ一人起立して福音を聞いたため、大衆からは好奇のまなざしで眺められた。主催者の機嫌を損ねてしまったかもしれない。しかし、私は今でも自分のとった行動がスタンドプレーの奇行であったとは思わない。福音朗読は司祭をキリストに見立て、我々は主に敬意を表して起立し、司祭を通して語られる主のみ言葉を聞くのだから。私は自分の気持ちを曲げることができなかった。

ミサ中の動作(しるし)や象徴を正しく理解しなければ、精神に歪みが生じるであろう。その歪んだ精神が真の意味での問題を生み、真理を見る目を曇らせる。これがBorobio氏の真意であるように思う。神は福音朗読の時に座ったくらいで腹を立てる狭量のお方ではない。案内に従って素直に着席したまま福音を聞いた会衆は、誰ひとりとして罪に定められなかったであろう。だが、このようなミスガイドによってもたらされる心の荒廃、感受性の低下、そして、そこから二次的に生ずるであろう病んだ信仰観を、神はきっと悲しまれるに違いない。

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追記: 先日、全世界の修道会の代表によって構成される世界総長会議の議長を2期務めたカルメル会の前総長、カミロ・マクシーセ神父が来日し、福音宣教や典礼のインカルチュレーション(文化的適合)について貴重な講演を行った。神父は「インカルチュレーションは絶対に必要であり、あらゆる障壁にもめげず遂行すべきである」と断言しつつも「その過程においては慎重と熟慮が求められる」と念を押した。その後、温厚な老師の口から会場の静寂を突き破る不気味な言葉が囁かれ、それが聴衆の心の奥底には玄妙に響いた。
「典礼刷新が過ちを犯した時、人は過去の安全地帯に逃げ込みたくなる。こんな思いを抱かせる刷新はない方がましだ」

 この言葉が意味するもの・・・

泣きたい気持ちを懸命にこらえて家路についた。
初秋の薄暮 
緋色に染まる都会の片隅で、場違いに咲いた一輪のコスモスが、そよ風に全身を揺らし、幾千年の月日を経ても進歩のない傲慢な人類を憐れむかのように、寂しげな微笑を浮かべていた。
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