2004.08.28
**** 様

野村@早起き、です。
私も夏は苦手です。暑がりですが冷房にも弱いのです。腰痛が必ず出ます。

今月は18日に靖国神社へ参りました。

15日、正式な日に全員で聖母被昇天ミサが祝えました。今年は梅村司教様の司式で、グレゴリオ聖歌・聖母被昇天祝日のミサ曲 Cum jubilo でささげました。
(山手教会では例年15日直前の土曜日夕刻に、被昇天ミサを教会の庭・マリア様御像の前でささげており、そのあと庭で会食する習慣です)

私の兄も、死にたくて死んだ訳ではありません。靖国に祀られた先の大戦々死者の、ほとんどがそうであったと思います。死にたくなかったのです、絶対に。しかし死んでいったのです。

小泉総理が総理になった最初の年、靖国を参拝した際、確か、
「無念だったでしょう」
と話したと記憶します。無念に死んだのです。だから私たちは祀るのです。だからこそそれは、もっともつよい、平和を求める祈りなのです。靖国・遊就館に展示される戦闘機、戦車、帰る燃料のない人間ミサイル、等々を見て、軍国主義をあおるものだ、と云う人がいます。

普通の神経・感覚の人があれらを見て、「もう一度戦おう」と思うのでしょうか?
「二度と戦争をしてはならない」
と感じるのが自然であり、靖国神社は正にその意図であれらを集め、保持していると思うのです。おそらく、「使われた兵器」ほどに平和を希求するものはないと思います。本来は国家が、瓦礫でもいい、それらを集め、名もなく戦場で朽ちた髑髏を並べ、鎮魂すべきです。

カトリックの神父がマッカーサー司令部に対して靖国神社を守ったことを私たちは真実誇りに思うべきですが、多くの若いカトリック信徒は、そのこと自体を知らないでしょう。

日本の近代史も、勿論、良いことばかりではありません。しかし輝かしいものはいっぱいあるのです。アジアの人たちはそれを知っており、中国は独裁国家ですから出ませんが、韓国人は多くそのことを記しています。中国・韓国と、他のアジア諸国と、どうして日本への対応が根本的に違うのか、それは中・韓に「日本蔑視」があったからです。日本は「倭国」なのです。「倭」の国にやられたから許せないのです。しかし、日本が統治した国とヨーロッパ人がやった国の、あとはどうなりましたか。日本人は朝鮮・台湾に学校を建て道路を整備し、鉄道を敷きました。北朝鮮では日本の建設したダムが今もなお発電しています(切手にもなっているそうです)。東チモールにオランダ人は何を残しましたか。日本に教育された人々が、韓国・台湾を立ち上げたのではないですか。教育(読み書きそろばん)が根本ではないですか。

長くなりました。
「東京だョおっ母さん」という、私たちの年代なら誰もが知っている島倉千代子の歌があります。

やさしかった 兄さんが
田舎の話を 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

このような歌がヒットし、誰もイチャモン付けませんでした。
今、日本はどうして、こう悪くなったのでしょうか。

若い**さんだから解説しましょう。これは東京に住む娘が(就職か、結婚か)、呼んであげたのでしょう、おそらく初めて東京へ来たお母さんを案内する歌です。今のように便利な時代ではありませんでした。歌は、二重橋、靖国、浅草観音、を歌います。

やさしかった (戦死した)兄さんが
田舎の話を 聞きたいと
(靖国神社の)桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん
あれが あれが (靖国の鳥居が見える)九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

 

 
 

2001.07.01
思考の断片 8
靖国神社参拝問題
( 「ヴァチカンの道」第35号 Aug.15.2001)
野村勝美(ノムラカツヨシ)

八月十五日聖母被昇天の祭日は、先の大戦が日本の降伏によって終結した日に重なります。この時期になると我が国総理や閣僚の靖国参拝が必ず問題になります。参拝した閣僚に対して「個人としてか公人としてか」との愚にもつかぬ質問が恥ずかしげもなく毎年繰り返されます。個人と公人がそんなに器用に分けられるなら、休日にゴルフをしていて、かつ自分の施政権の及ばぬ場所での事故に関し、森前総理の責任をどうして問うことができたのでしょう。

私自身は八月十五日、皆勤という訳ではありませんが靖国神社を参拝しています(この日は忙しいですね)。私は、「礼儀」、もしくは「義理」として行っています。私の二人の兄は出征し、長兄は死にました。父母は最後まで兄を偲び、特に母は靖国神社を口にしていました。母が参拝したかった場所であるが故に、私は靖国に参っております。過去帳には長兄のことが次のように記されています。

「故陸軍伍長 野村博美 享二十三歳
  大東亜戦争ニ出動、マリアナ群島大宮島ノ戦闘ニ於イテ玉砕ス
  戦死公報ニヨレバ九月三十日戦死シタトアルガ其後帰還戦友ノ話ニヨリ
  八月十日ノ命日トス」

実際には本当の場所も日も分からないのです。生きたかったでしょう。しかし死んでゆきました。次兄は、兄さんの死んだのは六月二日だと思う、といいます。根拠は唯一、満州にいた次兄にその日耐えられぬ程の胸苦しさが襲い、ああ兄貴がいま死んでいるのだと感じた、というのです。自分にとって兄貴の命日は六月二日だ、と云います。私もそれを信じるのです。
   かつて、自分の意志でなく死んでゆかねばならなかった多くの人々がいました。私がこの日靖国を参拝するのは、その方々へのエチケットとしてです。

小泉総理が八月十五日靖国神社を参拝すると言っています。私は小泉さんは行けば良いと思います。何故なら、今まで行っていた、からです。小泉という人間が参拝する、そのときの立場が首相である、というだけのことです。土台、公式非公式、個人公人を問題にするのがおかしいのです。私は、日本の首相が必ず靖国参拝をするべきである、とは思いません。それまで行っていた人は首相になっても行けばいいし、行かなかった人がムリして行く必要はないと思います。橋本竜太郎氏が首相としての信を失ったのは一に、遺族会会長として例年行っていた八月十五日の靖国神社参拝を首相になったら止めたからであり、二に佐藤孝行氏を見殺しにしたからであると、私は思っています。あのような人物は国民から(そしておそらく中韓からも)信頼されないでしょう。人は相手を 、「自分の意に沿うから信頼する」のではないのです。

佐藤孝行氏について言えば「前科者」故に殆んどすべてのマス・メディア、与野党政治家が、彼の「社会復帰」を拒否したのです。このことの、常に正義の味方づらした人々の偽善を、私たちは忘れてなりません。そして佐藤氏を拒否したと重なる(と感じられる)メディア、人々が、ごく当たり前の信教の自由を圧殺しようとして、その意識すらありません。誰が何処で何にどのように祈ろうと、それはまったく個人の自由であり、時の肩書きに関係ありません。それを関係付けようとすることこそ、まさに政教の混合なのです。政治が宗教に介入してならぬと同じく、宗教もまた政治に介入してはなりません。それが「政教分離」でしょう。双方向のものです。

信教への政治の介入に最も過敏に反応する人々が、人の信教・信条を圧殺しようとして平気なのです。

六月二十三日、小泉総理は沖縄へ行きました。広島へも長崎へも行くと聞いています。そしてその流れの中に靖国への参拝も位置付けられるのでしょう。総理は昨日、現地時間二十九日夕刻、米アーリントン国立墓地に参拝、献花しました。沖縄→アーリントン→広島→長崎、そして靖国。そこには一筋の意志があります。それが実現したとき私はほとんど初めて、はっきりと発言し、信念と戦略を持った宰相を見ることができるように思っています。

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ここまで書いて今朝(7/1)の日経朝刊に次の記事を発見しました。工藤美代子氏の「マッカーサー伝説」中です。彼女は以下を「マッカーサーの涙」という書物から引用しています。マッカーサーは神宮神社の撲滅を唱える強硬派将校たちの主張に関して、ビッテル神父に書面による意見を求めます。ビッテル神父はGHQによってローマ教皇使節とし承認された人であったようです。

「わが司令部の将校たちは靖国神社の焼却を主張している。同神社焼却に、キリスト教会は賛成か。反対か、すみやかに貴使節団の統一見解を提出されたい。」

ビッテル神父が数人の神父たちと協議して出した結論はこうでした。

「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家もその国家のために死んだ人びとに対して敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。」

 そして、もしも靖国神社を焼き払ったとすればその行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろうといい、ビッテル神父はそれを「犯罪行為」だとまでいった、とあります。

(筆者註:ビッテル神父様は当時「ヴァチカン代理公使」であったようです。)

(終)2001.7.1

 

 
 

2001.08.20
小泉総理の靖国神社参拝
 

小泉総理が公言していた八月十五日でなく十三日に靖国神社を参拝しました。参拝に賛成側反対側双方から大きな批判の声が上がりました。私も十三日は正直ガッカリしました。空気が抜けました。しかし今、一週間ゆっくり考えてみると、私は小泉さんの決断は冷静であり、むしろ剛毅であったと思うのです。

小泉さんにとって、十五日に参拝することは、むしろ決断の不要なことでした。公言したことを実行すればいい、世論もあきらかにそれを支持していました。正しいか正しくないかを言えば、私はそれが正しかったと思いますし、むしろ安易だったと思います。しかし小泉総理は敢えて一番不人気と思える選択をしたのです。そして「首相の談話」で、

「総理としていったん行なった発言を撤回することは、慙愧の念に堪えません」

と、強い表現で謝りました。極めてストレートです。その理由を、「自分の持論は持論として」、つまり本当の自分の意志ではないけれど、

「しかし自分の意志を押し通せば正にそのことによって、自分の求めるものと違う現実が生ずる可能性がある。」

そういう意味のことを参拝後のインタビューで語りました。これは政治家として稀有といえるほど正直、かつ哲学的な所感です。目的へ突き進むこと、そのことが目的の実現を阻害する。政治にも個々の人生にも、よくあることです。突き進むことなく、明確に意識して踏み止まる。それは実は、強い精神の必要なことと思うのです。

更に、靖国に祀られた人たちのことを(大東亜戦争での死者を念頭と思いますが)、

「無念だったでしょう」

と言いました。彼はその死を称えなかったし、その時代を善しともしませんでした。「無念だったでしょう」と語りました。このひと言によって、私は小泉さんの「まこと」を信じ、そして「無念だったでしょう」の鎮魂のひと言が、きっちりと英霊に届いたと信じるのです。

「無念だったでしょう」
英霊たちは「無念」に死んでいったのです。無念に死んだから英霊なのです。喜んで犠牲になったのではないのです。生きたかったのです。靖国神社はいずこにもまして鎮魂の社なのです。小泉さんの十三日の祈りは、私は死者に通じたと思います。「若者が無念に死んでゆかねばならぬ社会を、再び作ってはならない」、それ以外の何を靖国で祈るでしょうか。

十五日、私は七時のミサのあと靖国神社へ行きました。今年は特に大勢の人でした。いわゆる「右翼」もいっぱいいました。私は、「正義」「平和」「愛国」などを声高にしゃべる人たちを、好きになれません。(大体同じ種類の人に思えます)。小競り合いもあったようです。小泉総理が十五日に参拝すれば、現実に靖国を舞台とした騒擾事件が発生したかも知れません。あるいは小泉さんの失脚を望む勢力があれば、騒擾を仕掛けたかも知れません。(私は可能性は高かったと思います)。街宣車が自分の手柄のごとくヴォリュームいっぱいに市街を吼えて回ったでしょう。小泉さんの求めるものとは別なことです。

「聖域なき構造改革」は何としてもやり遂げなければなりません。可能なタレントは小泉さんしか見当たりません。大変な闘いになると思います。暗殺も考慮しなければならぬ程のものになるでしょうね。小泉さんの意識には入っていると思います。

(余記:小泉さんの十五日参拝を諌め、自分は十五日に参拝した山崎幹事長という人を、私は何となく凄い人と思います、正体はよく分かりませんが。)

2001.8.20

ノムさんのエッセー
ノムさんの旅
やまて喫茶室
聖歌隊