2002年夏
ベルリンの旅

 

20世紀はどのような世紀だったのでしょうか。私には各世紀を比較する知識がありませんが、獰猛な殺戮の世紀であったように思います。その中心はコミュニズムとナチズムでした。更にその前提として西欧の帝国主義がありました。3大スターはスターリン、ヒットラー、毛沢東でしょう。共通するのは想像を絶する残忍さです。

私がほんの少し共産主義国に触れたのは1977年4月1日、私の35の誕生日でした。トランジットの客としてモスクワ空港に降りました。要所を、というよりほとんど10mおきに、カービン銃を肩にした兵士が固め、我が国の空港とは随分違う雰囲気でした。(ソ連の空港はすべて「軍港」で、管制を含め軍の支配下にありました)。ブレジネフの顔が表紙となった冊子があちこちに置いてありました。今にして10冊くらい持って帰れば良かったと思います。私がジャーナリストや作家になれなかった、その為に必要な資質の欠如が、ここでも明らかです。

私はロンドンよりの羽田行きアエロ・フロート機を待っていたのですが、その飛行機は雪のため着陸できず別な空港に降り、私たちがそちらへ移動することになりました。その間、6時間あまり何の情報もなく、夜中になってバスに乗せられました。誰かがレニングラード方向だと言いましたが、私には知る由もありませんでした。
バスに乗り込んだ軍服の男女、濃緑の軍服の格好良さ、女兵士の美しさ、
街路灯のない暗い道、暖房の効かぬバスの寒さ、
時折見えるアパートらしきものの部屋に灯る裸電球、
黒く広がる工場(ネオンや看板はありません。工場であっても「会社」ではないのです)、
そんなものが記憶に残っています。

それから10年余り、1989年6月初旬、私は東ドイツにいました。6月4日の天安門事件は東ベルリンで知りました。東ドイツ政府は全面的に中国共産党を支持しました。彼らも、ほんの数ヶ月のちに、可能なら同じ選択をしたでしょう。政治家が実行するあらゆる決断は「政治的メッセージ」だと思います。その意味で「天安門の屠殺」ほど、簡単明瞭にして有効なものはありません。あの時の政治的目的は「民衆を震え上がらせる」ことでした。そこで「逆らう者は殺す」と宣言したのです。ひどいことを、というけれど、ひどいことが政治的に必要であった(と、ケ小平は判断した)のです。「天安門の屠殺」は一発で目的を達しました。

ケ小平氏はあるとき(月刊の「現代」だったと思います。イタリア人女性ジャーナリストのインタビュー記事でした)、「ポル・ポトは少し殺し過ぎた」と話していました。100万とも300万とも云われる虐殺を「少し殺し過ぎた」というのです。この記事を読んだときは背筋が寒くなりました。又、元駐日ソ連大使フェドレンコ氏が1999.3.5の産経新聞に、スターリン・毛沢東会談の通訳をした回想に関連し、”毛沢東は革命の最中、ある村で70人もの村人を殺した話しを持ち出し、「あの時はもっと殺しておくべきだった」と自慢話をした。二人には人の命は何の意味も持たなかった。イデアの為に手段を選ばず恐怖で人の心を完全に支配し、「生き神」として君臨して国家運営を図るという政治手法が共通していたのだ。”と話しています。

人の命が一番大切だなんて真実思っている政治家は一人もいません。そんな風に思っている人間は政治家にはなりませんし、なったとしても「良い政治家」かどうかは疑問です。「人命は地球より重い」などと云った政治家は、歴史的にも、我が福田赳夫氏のみでしょう。政治権力が国民にメッセージを発するとすれば、天安門は、最も簡明正確な、意志の表明でした。残虐行為は、残虐である故に有効でした。戦車もまた、政治家にとって言語でした。


その時、ベルリンの壁がそのすぐあとで崩れ始めるとは想像もできませんでした。ホーネッカーが自国民に戦車を向けなかったのは、彼の残虐性の不足でなく、結局、体制としての残虐さ(箍)の緩みでしょう。持たなくなっていたのです。

 

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思えば1989年というのは大変な年でした。

1月7日、昭和天皇崩御。1月8日、平成元年となりました。

5月24日、栃木**株式会社が大手機械メーカーT社と私の所属する小さな鉄工所の折半出資で、資本金8000万円により設立されました。私が社長に就任しました。資本金の8,000万円は最初の3ヶ月で無くなりました。うなされる夜が続きましたが、そのうち「慣れ」ました。毎月末、銀行に借りに行きました。親会社の保証があったとはいえ、不思議なことに当時の銀行は貸して呉れたのです。だから私は銀行の「不良債権」というものの、発生の雰囲気がよく理解できます。(この会社は最高7億円弱の累損までいってストップし、前々期にそれを一掃、配当できる企業になりました)。

美空ひばりさんが亡くなりました。

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以下、この年に起こった主な出来事を列記してみます。

・ リクルート事件
・ 消費税スタート
(4月1日、消費税制度がスタートした。税率は3%)
・ 幼女誘拐殺人容疑者を逮捕
(宮崎勤の事件)
・ 天安門事件
(6月3〜4日。数千人が虐殺された。)
・ 美空ひばり死去
(6月24日)
・ 参議院議員選挙で与野党逆転
・ ベルリンの壁崩壊
(11月9日、ベルリンの壁が実質的に撤去された)
・ 12月27日:竜王戦で19歳の羽生善治が新竜王に。将棋界初の10代タイトル保持者となる
・ 東京証券取引市場一部の平均株価が年末に3万8915円の市場最高値

亡くなった人
昭和天皇
(87歳、1.7)、 サルバドール・ダリ(84歳、1.23)、 芥川也寸志(63歳、1.31)、 手塚治虫(62歳、2.9)、 阿佐田哲也(60歳、4.10)、 松下幸之助(94歳、4.27)、 殿山泰司(73歳、4.30)、 春日一幸(79歳、5.2)、 城卓矢(52歳、5.9)、 美空ひばり(52歳、6.24)、 ヘルベルト・フォン・カラヤン(81歳、7.15)、 古関裕而(80歳、8.18)、 マルコス(72歳、9.28)、 浦辺粂子(87歳、10.2)、 松田優作(39歳、11.6) 、 開高健(56歳、12.9)、 田河水泡(90歳)

 

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もう一度、モスクワ空港へ戻ります。私はロンドンからの羽田行きアエロ・フロート機を待っていたのですが、その飛行機は雪のため着陸できず別な空港に降り、私たちがそちらへ移動することになりました。その間、6時間あまり何の情報もなく、夜中になってバスに乗せられた訳です。

日本人なら、何の情報も無く電車や飛行機が30分でも遅れたら大騒ぎになるでしょう。私たちの中にも空港職員に問い合わせする人がいました。相手の答えは決まって「私は何の情報も持たない」でした。

何回もソ連に来ている人がいて、
「無駄ですよ、この国では。誰も何も知りません。飛行機は飛ぶときは飛ぶんです。飛んだら、飛んだと思えばいいんです。待つだけです。なるようにしかならんのです。そういう国なんですよ」
と云っていました。

ここで乗せられた「バス」はリムジン・バスでありません。簡単には「護送車」です。

>>バスに乗り込んだ軍服の男女、濃緑の軍服の格好良さ、女兵士の美しさ、・・・・

これは私たちを「護送」する監視兵として同行しているので、私たちを「客」とは思わず、わずかな微笑みすら見せませんでした。二人は前方にこちら向きの座席に坐り、ただひたすら二人だけで話し続けました。私は映画を見る感じで、相当の長距離(2,3時間走ったと思います)飽きることがありませんでした。なにしろ外は真っ暗だし。そして、本当に美人でした。
ロシア人の、若い女性の美しさと若くない女性の美しくなさは、息を呑みますね。

 

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さて「東ドイツ」です。

1989年4月2日(日)に山手聖歌隊の花見がありました。そこで松本さんという友人(山手教会聖歌隊の指揮者。私に洗礼を授けた吉山登神父とともに、私の恩人です)から、「6月早々に東ドイツの文化庁から招待されてハレのヘンデル音楽祭に出演します。ついては何人か、家族親族ということで同行が許されます。誰かご一緒しませんか」という話しがありました。私は即座に「連れていって下さい」とお願いした訳です。松本さんはMという日本を代表する企業集団に属しており、そのグループは2,3年に一度、合同で合唱団を編成、公演しています。

ハレというのはヘンデルの生誕地で、ここで毎年「ヘンデル音楽祭」が開かれています。各国から参加してヘンデルの曲を歌います。MDC合唱団がそのとき持っていった曲は「ユトレヒト・テデウム」「ユトレヒト・ユビラーテ」というものでした。ヘンデルがユトレヒト条約を祝して作曲したもののようです。それとは別に単独のコンサートをハレと東ベルリンで開き、そのプログラムは「日本抒情歌曲集」、團伊玖磨作曲「筑後川」、モーツァルト「レクイエム」というもので、「筑後川」については團伊玖磨先生が自ら指揮なさいました。

 

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1989年6月2日朝、成田空港よりモスクワ経由、ライプチッヒへ向かいました。(確か同じ飛行機に、後に韓国大統領となった金泳三氏が乗ったと思います。韓国の歴代の大統領は我が国と比べそれぞれに個性的で、どちらかというと私は好きなんですが、金泳三氏だけは最低の人間であったと思います)。イリューシンで、私は経験があり驚きませんでしたが、やっぱり窓から滴が垂れてきました。しかしモスクワの警備は随分とゆるやかになっており、弛緩の印象がありました。あとになれば肌で感じたことが意外と正しいと分かります。ソヴィエト連邦も最後の段階を進んでいたのでした。ライプチッヒには深夜に着き、メルクール・ホテルで泊まりました。

東欧には「古い良きヨーロッパ」がある、と云われていました。私もそれを期待していました。その裏には商業主義で俗化した西欧という刷り込みがありました。

翌朝、早く目が覚めました。「白夜」状況で夜の時間が少ないのです。窓のカーテンを引くとまだ人の動きはなく、発電所と思える大きなエントツが見え、日本では許されない濃度の煙を排出していました。あとでその周辺を廻り、中を覗いたのですが、燃料は何というのか、泥炭と呼ぶのか、低質の粉状石炭をタドンのように団子にしたものを使っているようでした。集塵装置は確認できませんでしたが、電気集塵機(EP)とか、バグ・フィルターが使われていないことは、煙の色を見れば分かります。

ホテルの外に出ると、正面に教会のようなものが見えました。私はそちらの方向に歩いて行きましたが、路端に、このあと日本でも「トラバント」「トラヴィ」として有名になった小さな車が何台も「放置」してありました。私は、ドイツでもこんな風に車を捨てるのか、人間はどこも同じだな、嘆かわしいもんだな、と思いつつ歩いていましたが、ふと一台の中に人形の飾ってあるのが見えました。あれ、と思い他の車も点検すると、それぞれに生活の跡があります。
「スクラップじゃないんだ。現役の車なんだ!」
これが最初の驚きでした。
後でこの「トラバント」の納期が10〜13年かかると聞き、最初はまったく信じられませんでしたが、帰る頃には信じるようになりました。子供が生まれると「トラバント」を発注するそうです。子供が乗るようになる年頃、車も出来てくるということです。車の事故も非常に少ないと聞きました。傷めたら補修部品は「無い」のです。話しを聞いて、ユメを見ているようでした。

教会と思える建物は、どの扉も開いていず入ることができませんでした。その後、機会ある度に覗きましたが一度も開いたことはありませんでした。

朝食のあとハレへ5台のバスで向かいました(総勢約200名でした)。何しろ「文化庁招待客」ということで先導のパトカーが付き、信号無視で優先走行です。権力というものを思いましたね。パトカー先導で走ることは、それなりに快感のあるものです。ライプチッヒとハレはおよそ50キロの距離で、私たちは毎日バスで往復しました。おそらくハレに適当なホテルがなかったのだろうと思います。

ハレ迄の途上、左右の畑を見ました。作物は弱々しく明らかな栄養失調でした。この国は肥料が不足しているのだ、と私は理解しました。人々のアパートの窓にも、ヨーロッパ人の本能として花が飾られています。すべて痛々しく栄養不良の花でした。

ハレに入りますと、町の建物はほとんどすべてに弾痕が生々しく残り、戦場の雰囲気が残っていました。大きな建物で放置され「苔むす」感じのものがあちこちにありましたし、大きな建物の一部に住んでいる(私の感覚では気持ち悪くて住めない)ようなものもありました。私には「古き良きヨーロッパ」が残っているのではなく、「放置されたヨーロッパ」「さびれたヨーロッパ」「瓦礫のヨーロッパ」と思えました。

 

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ライプチッヒの朝。発電所の排煙の濃さにがっかりし、スクラップと思ったオンボロ車が現役であることにびっくりしたことを書きました。但しそのことで東独の人に優越を感じる積もりはありません。

排煙について云えば、1960年〜75年の日本はもっとひどかったのです。東京では、美濃部都政は多くの根本的な誤りを犯し、それが今日に及んでいるものがありますが、公害規制だけは高く評価すべきです。私は美濃部さんに一度位は投票する機会(そのとき都民であった)があったと思います、記憶違いかも知れませんが。車も、自分が自家用車を持てると感じるようになったのはそんなに昔でありません。
トラバントというのは「スバル360」と「TOYOTAパブリカ」の中間位と思います。(そんな例え、誰も分からん?)。2サイクルでポロポロと走ります。大柄なドイツ人が体を丸くして乗っているのは漫画チックだったことは事実です。

私は今回のメモを、私が唯一寝泊まり食事した共産国家の記憶として書いています。ナチス・ドイツは消えましたし共産主義国もほとんど無くなりました。共産中国へ私は行ったことがありませんが、ほとんど資本主義となっているようです。今世紀の最大のトラブル純・共産主義国家は、もうなかなか味わうことのできぬものです。

最大の目的であった「MDC合唱団」の「ヘンデル音楽祭」での演奏は、私の記憶に残っていないのです。但し翌日6月5日の単独のコンサートはよく憶えています。ホールは教会を改装したものでした。ここ以外にも多くの、かつて教会であったと思える建物が改装もしくは放置されており、教会として使われているものを発見できませんでした。この日は「日本抒情歌曲集」、「筑後川」、モーツァルト「レクイエム」が演奏され、聴衆の私としても、見事な演奏と思いました。ただ聴衆が非常におとなしいのです。まあ、熱狂する種類の曲ではありませんけどね。

アンコールで歌われたモーツァルト「Ave verum corpus」のあと、しんとしているので2階席にいた私が「ブラボー!」とやりました。すると、突然スイッチを入れられた電動モーターのように大拍手となりました。誰も、先陣をきっては態度を表さないんだな、と私は理解しました。(余談ですがこのブラボーは「ドロボー事件」として長く笑い話になりました。ステージではブラボーでなく「ドロボー」と聞こえたそうです)。聴衆に、帰る人はなく、拍手はずっと、コーラスの最後の一人が舞台を去るまで続きました。おとなしい、しかし優しい人たちでした。

翌日、ハレ郊外の丘にある広場で日独合同の、夜の「野外コンサート」がありました。ここでも忘れられぬ事がありました。
私たちにはドイツの人たちが用意して下さった「弁当袋」が支給されました。パンとチーズ、小さいソーセージ、きゅうり(向こうの太く大きいもの。味は良い。それが一本丸ごと入っている。ボリボリやる訳です)、りんご(ヨーロッパのは小振り。りんごは日本が最高)、そんなものが紙の袋に入っていました。日本人のデュッセルドルフから来たマネージャーの注意は、
「絶対に捨てるな」
というものでした。
「ここの人たちにしては最大のもてなしをしている。絶対に、捨ててはならない」
へえ、そんなものか、というのが私の正直な感じでした。しかし食欲が湧かないので、そのまま持っていました。

21時頃、ようやく暗くなりました。驚くほど多くの人が集まって来ました。おそらく何万という人数だったと思います。私は「弁当袋」をそのまま持っていたのですが始末に困り、となりに居た子供(小学三年位)に差し出しました。まあ、すこし微笑みながら「あげるよ」と示した訳です。しかし内心では「失礼な」とソッポを向かれるのではないか、と恐れていました。
その子は、
「ボクに?」
という顔をしました。私は、
「そうだよ」
とうなずきました。
その時のその子の顔の輝きを、私は生涯忘れないでしょう。本当に、顔が輝いたのです。
「本当? ありがとう!」
あるいは、
「やったア!」
という感じでした。そしてその「袋」を隣の両親にかざして見せました。

ああ、この国は貧しいのだ。
私は本当に理解しました。しかし貧しさと幸せは別でしょう。私たち日本人は物質的に確かに豊かになりました。しかしハレのあの子のような、食物を見る顔の輝きを失いました。平気で食べ物を捨て、そうしながら廃棄物の増大に苦しんでいます。物質的な豊かさは、別な大切なものを失う危険を持つようです。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」との主イエズスの御言葉を思います。

 

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ライプチッヒの思い出はやはり大バッハの「聖トマス教会」を訪ねたことです。実際にあのバッハが弾いたオルガンを、下からではありますが見ました。自分の立っている場所にバッハも立ったのだと思うと、不思議な気持ちでした。この教会で私は初めて「僧侶」を見ました。小聖堂で何人かが祈っていました。東ドイツで聖職者を見たのは、ここだけでした。

8月7日、ライプチッヒより東ベルリンへ移動し、「グランド・ホテル」に投宿しました。かつて中曽根首相もここに泊まったという、東独にしては第一のホテルでした。ここで初めて「天安門事件」を知ったと思います。北京で大変な暴動と鎮圧があったこと、東ドイツ政府は全面的に中国政府を支持する、ということでした。

夜、シャウシュピール・ハウス(現コンツェルトハウス・ベルリン)にて公演がありました。ヒトラー、ナチス高官たちがよく来たという「歌劇」場は、十分に美しいものでした。(1989.11.07に「ベルリンの壁」が崩落し、12月25日、レナード・バーンスタイン指揮で米英仏ソ合同のオーケストラ・コーラスが、ここシャウシュピール・ハウスで「第九」を演奏しています。コーラスはほとんど絶叫で、再建バイロイトにおけるフルトヴェングラーのものと共に、記念碑的な快演といえるでしょう)。

シャウシュピール・ハウスの公演については相当に面白い話しがあるのですが、短く面白く書くのは難しいので、機会があれば独立した話しとして語らせて頂きます。簡単にはS氏と私のスーツケースが「グランド・ホテル」到着後どこかに紛れてしまい、いろいろあった上、S氏に私の黒のブレザーと旅行添乗員の白シャツを着せ、蝶ネクタイは楽譜の黒カバーをちょん切って輪ゴムで首に止めました。
私とS氏のカバンが行方不明になったから良かったのです。S氏だけであれば私は何も気付かずみんなと一緒に会場へ行ってしまっていたでしょう。私のブレザーが黒だったのも良かったし、楽譜だけはしっかり手持ちしていたSさんも立派でした。楽譜カバーが黒だったことも幸運でした。私たちは走って会場に向かい、ぎりぎり間にあいました。

8月7日のシャウシュピール・ハウス公演をもって、演奏スケジュールは終了しました。8月8日、ポツダム会談の場やサンスーシ宮殿等を観光しました。
翌9日、ドレスデンへの観光がありましたが、私はベルリンに残りました。往復10時間以上をかけドレスデンへ行くには、ベルリンはずっと魅力的な都市でした。私はドレスデンへ出発するバスを見送って、大好きな「一人」になりました。

東ベルリンはさすがに街路もきれいで、西ドイツの町に「近い」ものでした。しかし、冷たい緊迫感がありました。このひと月あと、西側から東ベルリンに入った娘から、「暗い」とひとこと、端的なハガキが来ました。やはり確かに、独特の、締めつけられる感じがありました。
ウンター・デン・リンデンは美しい通りでしたが、星条旗、ユニオン・ジャック、仏三色旗、ソヴィエト連邦旗のはためきを一望できる辻があり、政治的な磁場に毛が逆立つようでした。

私はひたすら東ベルリンの町を歩きました。
ブランデンブルク門には可能な限り近づきました。壁の向こうから西側の人々がこちらを覗き込んでいました。自分が動物園のサルになったような気がしました。あの壁が、ほんの2,3ケ月後に打ち壊しが始まり100日後に崩落するとは想像もできませんでした。「チェックポイント・チャーリー」も見ました。私も映画の中にいるようでした。耳の中に響いたのは戦車の行進、ヒトラーの甲高い演説、「寒い国から帰って来たスパイ」の銃声、そんなものでした。

今、「東ベルリン」は無くなりました。
"時間が止まるなら"正直、あの町は魅力がありました。何かといって、「空気」ですね。静電気あるものを肌に近づけると毛が立ちますね。「東ベルリン」の空気は、全体として静電気を帯びていたように思います。うまく説明できませんが、あの空気は他のどこにも無いものでした。

長くなりすぎましたので「最終段階の東ベルリン」で経験した印象に残ったことを記します。

・金日成バッジを付けた北朝鮮の人をあちこちで見かけました。
・コダックのフィルムを求めたら鍵付きの引き出しから取り出して来ました。おどろきました。
・ドレスデンへ行った人の多くからおみやげの買い物を頼まれました。同じものを複数の人から頼まれました(人形や、工芸品のようなもの)。これは、「同種のものは一つしか無い。複数は無い」ということを発見しました。売れ筋商品はいっぱい作り在庫する、という感覚は欠落しているようでした。オミヤゲ係の私はあちこち走り回って同等品を探すのに苦労しましたが、頼まれた全部の調達はできませんでした。

・ある店で松本さんたちが、東ドイツマルク(M)が無くなったので西のDMでいいかと訊ねると、奥へ連れていかれました。倍に評価して呉れて、もっとDMは無いかといわれました(発覚すれば監獄行き)。あとで聞くと、実際のレートは8〜10倍位のものであったそうです。

・グランド・ホテルで私たちグループの為、特別、時間外に開けて呉れた「マイセン磁器」の店で、私は一つの人形を手に入れました。私が手にもった時、周囲からひや〜という嘆声が出ました。「それは売り物じゃないですよ」と誰かが言いました。しかし底に値段が入っていて、私はレジに並び、購入できました。若い貴族の男女がテーブルを挟んで何かをささやいているもので、信じられぬほど美しいものです。その後私は国内のデパートのマイセン・コーナー、展示会、何回かドイツを訊ねた時、機会ある毎にマイセン磁器店を回りました。私がグランド・ホテルで手に入れた人形に匹敵するものはありませんでした。私の持ち物で唯一自慢のできるもの、ほとんど宝です。東ドイツ出国の際、通関でその人形がひっかかりました。没収されるのではないかと心配したのですがそうでなく、通関の人が四人ほど集まって来てその人形を見つめているのでした。いくらしたのか、と訊ねるので「****DM」というと、「****デー・エム!」とうなるように云いました。そのデー・エム!という発声が、M(東独マルク)とDM(西独マルク)の価値の差を表現して今も耳に残ります。(因みにグランド・ホテルではMは使えません。自国の通貨が使えぬ体制とは、ソ連もそうでしたが、そも何であったのでしょう)。

あの「おとなしい」タマ抜きされたような東ドイツの人々がベルリンの壁にハンマーを打ち下ろした時、私は真実その安全を祈りました。天安門に対する東独政府の態度を見ても流血なく済むと思えませんでした。しかし既にその気力も東独政府には残っていなかったのでした、幸いなことに。

長い文章を読んで下さった方に感謝致します。共産主義は不幸な体制でした。しかし資本主義・自由主義が本当に良いのかどうか分かりません。モラルの裏付けのない自由は個人も国も崩壊に導くでしょう。日本ではこの10年余、巨大な経済事件が明らかになり、住専を始めとしてほとんどが「法律の外」で処理されました。山一証券も2日「破産宣告」がなされましたが、そもそも野沢というおっさんが「自主廃業します」と泣いたのが「違法」です。会社というものは社長が廃業しますといって出来るものでありません。社長にそのような権限はありません。このような明らかな違法無法を、マスコミは黙認するのです。案の定「株主総会」で自主廃業は議決できず、破産宣告となったのです。その間、大蔵省・日銀は数千億の資金を山一につぎ込みました。国家的な巨大法律無視が、至る所で行われています。

正直さ、誠実さのない資本主義は、結局、崩壊するでしょう。資本主義、自由主義は、根底に倫理がなければならぬものです。信頼がなくなったとき、独裁が生まれるのです。

以上の大半は今回のベルリン訪問前の文章です。併せて画像をご覧下さいませ。
とりとめない終わりようですが、日本が、世界が、より良い社会となりますように祈ります。そして国民市民として誠実な日々を送りたいと改めて思います。(終わり)

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