ベルリンの壁
これはやはり、忘れてならぬ歴史の一こまであろう。
|
|
1989年6月,8月 |
2002年8月 |
門の1,2柱の間に、西側の人が見えます。これが命を掛けねば越えられぬ、距離であったのです。下はその拡大。 |
お化粧直し中です。現在見えているのは「絵」です。 |
東を覗き込む西側の人々 |
|
ここより進めば射殺された |
|
充分な存在感があった |
|
ブランデンブルク門のすぐ近く。静かな、余りにも静かなシーンで、今も心に残っている。この人たちも、壁に向かってハンマーを打ち下ろしたのだろう。 |
|
ウンター・デン・リンデンの通りで、ソヴィエト兵の慰霊施設だった記憶がある。今回の旅では発見できなかった。柱に残るのは、凄まじい弾痕である。 |
|
アメリカ大使館 米、ソ、英、仏、の大使館が狭い地域に固まっていて、それぞれの国旗をはためかせていた。映画のシーンの中にいるような、緊迫感があった。 |
アメリカ大使館 なぜかバリケードが築かれ、今回は近づけなかった。 |
当時、夏休みを利用してケルン・ゲーテ学院でのドイツ語研修を受けていた娘・あい子に、「東ベルリンは是非見ておきなさい」と指示した。8月初旬、彼女は行った。ケルンから片道7時間の旅だったようである。結果として、「東」ベルリンを見る最後のチャンスだった。(以下、野村あい子の撮影です) |
|
西側より。建物は東ベルリン |
このように壁は築かれていた。正面人物うしろの衝立状のものが壁。下はその平面である。ここはポツダム広場。すぐ近くに、ソニー・センター、フィルハーモニーがある。
|
西側より |
|
東側より |
|
東ベルリン(中央の車はトラヴァント) |
|
マルク(ドイツ・マルクに非ず) |
|
チェックポイント・チャーリー |
現在は観光名所 |
このページをご覧頂いた知人から、次のようなメールを頂きました。 チェックポイント・チャーリーについて、下のサイトを参考にさせて頂きます。 “チェックポイント・チャーリーというのは東独の検問所ではなく、西側連合国側の「検問所」の名前だった”そうです。“パスポートチェックなど本当の検問を行う東独側の検問所は、所在地の名前をとって「フリードリッヒ通り検問所」といいました”と、上のサイトにあります。 つまりチェックポイントは東側西側二ヶ所にあった訳で、下の米ソ両国司令官の肖像が、その指揮圏を表しています。東側に入るのは比較的容易でしたが、東から西への進行には厳格なチェックが為されたことは、上の経験談をご覧下さい。しかしスーツケースの裏側、トラヴァントのエンジンルーム等、信じられぬ方法ですり抜けた人たちがいます。現在、「チェックポイント・チャーリー博物館」で実物を見ることができます。 1989年の、このポイントの地図を、下に載せます。 8月13日は壁の建設が始まった日、だったそうです。今回私が訪れたのはその前日、8/12
でした。知っていれば、その日に行ったのに。(8/15までいました) |
|
|
ソヴィエト軍司令官の肖像と告知板 |
|
アメリカ軍司令官の肖像
この、ほとんど背中合わせの看板が、自由と独裁の、SECTOR の分岐点でした。 |
1989年 |