木浦共生園
2003.4.28

種   類 : 養護施設
運営主体 : 社会福祉法人共生福祉財団
園   長 : 鄭 愛 羅
設立日    : 1928年10月5日
設立者   : 尹 致 浩
所在地   : 韓国全羅南道木浦市竹橋洞473番地 TEL.061-242-7501,FAX.061-243-7503

設立背景
 1928年、キリスト教伝道師で“乞食大将”と呼ばれた尹致浩(ユンチホ)が七人の乞食たちと生活を共にした。木浦共生園の始まりである。博愛精神に徹した日本人田内千鶴子は彼と結婚し、終戦後も残って孤児達の養育に専念した。韓国動乱で夫が行方不明になり、あらゆる困難を乗越え、生涯2千名の孤児を育て、“韓国孤児の母”と慕われた。韓国民間社会事業の中では最も古い歴史を持ち、現在まで 3,700名が共生園を立っていった。
 故・田内千鶴子園長の生涯は日韓合作映画「愛の黙示録」に映画化され日韓両国に多くの感動を伝えている。

目的
 保護者のいない児童、その他環境上養護を必要とする児童を入所させ、キリスト教精神に基づき、将来健全な市民として自立できるよう保護・育成することを目的とする。
 また、社会福祉を通して日韓友好の架け橋になることを使命としている。

児童現況

  未就学 小学校 中学 高校 大学生

9

22 13 6 5 55
4 11 6 4 1 26
13 33 19 10 6 81

(共生園の案内リーフレットによる)

木浦は釜山から高速バスで五時間半の距離にある。

扶桑社『日本人の足跡B』“田内千鶴子”によれば、田内千鶴子は大正元年(1912年)10月31日、高知県土佐郡(現在の高知市)で生まれた。木浦へ渡ったのは七歳の時だった。朝鮮総督府の木浦府庁に勤めていた父が家族を呼び寄せたためである。父は官吏、母は熱心なキリスト教徒の助産婦だった。

「千鶴子が二十歳を迎えた年、父の徳治は亡くなり、母の春が助産婦として家計を支えた。千鶴子も木浦市で当時、韓国人女子に中等教育を行う唯一の学校だった木浦貞明女学校に音楽教師として働きだす。
   しかし、三年余りの後、体調を崩して学校を休職。療養のため家庭の中に閉じこもりがちな日々だったが、信仰にはさらに磨きがかかり、自分の意志より神の心を優先させるようになっていた。」

「ようやく健康を取り戻した昭和11年(1936年)五月のある日、千鶴子に運命の出会いが訪れる。市内の親をなくした子供たちを集め、養育していた韓国人伝道師、尹致浩(ユンチホ)。街では“こじき大将”と呼ばれる男だった。」(日本人の足跡)

−−−−−−−−−−

この「こじき大将」と結婚した田内千鶴子は、「木浦のオモニ(お母さん)」と呼ばれている。

私が「木浦共生園」へ行ってみたくなったのは、結局「渇き」のようなものだった。
日本人の悪口を聞くのに疲れた。日本人が敬愛されている場所、そのような日本人のいた場所を、訪れてみたかった。

訪れたとき、時刻のせいか子供たちは外にいなかった。寮の中へずかずか入るには、言葉ができなかった。結局外をウロキョロした。事務室を覗いたら声をかけられ、園長先生とお話しできたのが幸いだった。

(画像解説中の「 」内の引用文は、特に断わらぬかぎり「日本人の足跡」のものである。)

 JALハウス 図書室・食堂 宿舎  
児童宿舎・倉庫 † 教会 オモニの碑 事務室
    ボランティア室  

田内千鶴子(1912-1968)
「海と陸の交通の要衝で、朝鮮半島の中では気候が温暖な木浦は、各地からやってくるホームレスが多かった。貧しい島々からは、生活に行き詰まった親が子供たちを捨てた。千鶴子が指導を始めたとき、共生園の子供たちは4,50人ほどになっていた。」

尹致浩(ユンチホ)
「園長の尹致浩は、せいの低いやせた貧相な青年でした。まる坊主の頭に麦ワラ帽子をかぶり、ほとんどの人がくつをはいているというのに、わらじをはいていました。でも、その目のなんと青く澄んでいたこと。彼はからだは小さいけれど、きもっ玉のどかんと大きな人でした。」(千鶴子のことば)

おそらくこの園の発祥を標す碑であると思う。

小渕恵三総理大臣より梅20本が贈られたとある。

オモニの碑

1960年の共生園

児童宿舎

 

図書室入口

教会全景

教会入口

日韓の友好を願う児童の絵

JALハウスの入口プレート

ボランティア室

 

園長・鄭愛羅(チョン エラ)先生と私。
鄭先生は田内千鶴子の外孫に当られる。

共生園の裏道。人が行き交いできる程度の細い道。今ある住いを見ても、決して豊かな人々の住む地域とは思えない。

 

韓国の旅目次へ

ノムラさん

おはようございます、A.T.です。

「木浦に行く。」とノムラさんがおっしゃっていた意味がやっと解りました。
お話をお聞きした時はピンと来ていなかったのですが、今回の旅行記を拝見してはじめて理解しました。

田内千鶴子さんの話は、何年か前、BSの番組で見て私も知っていました。
その番組では、一人の日本人の女性が、ご主人の意思を継ぎ韓国の孤児の為、リヤカ−をひいて食べ物の調達をしたり、大変な苦労を重ね、孤児達の「オモニ」として共生園をどう維持していたか、又、その祖母の意思を継ぎ、大学を卒業したばかりのお孫さんが、共生園を受け継ぎ、今又奮闘されているかをルポした番組で、深く感動した憶いがあります。

ノムラさんが写された写真を拝見し、番組で拝見したお孫さんが、その後ご立派な園長様として活躍なさっていらっしゃる様子に又、感動いたしております。
良いご旅行でしたね。ありがとうございました。   2003.5.16 A.T.