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渡嘉敷島・集団自決命令
2005.08.03
2005/07/25
昨日(7/24)の産経新聞に、
私はたまたま曽野綾子先生の「ある神話の背景」を読んでいます。かつて出版された同書がすべて絶版で、古本のサイトでも在庫無く、芝の図書館で借りました。読売新聞社の「 曽野綾子選集2」、「生贄の島」「ある神話の背景」「切りとられた時間」の三編が収録されています。(産経紙は本紙も「風景」となっていますが、「背景」が正しいのだろうと思います。昭和四十八年、文芸春秋のオリジナルがどうなのか知りませんが)。誠実な力作、労作であると思います。しかし私の場合書き込みもしたいので本は必ず自分のが欲しいのです。復刊を切に望むものです。
復刊ドットコム いずれにせよ散発ではありますが「戦犯裁判」が始まったようです。対象期間は戦後60年、使った武器は言論。基準はその言論が事実に基づいたものであったかどうかです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2005/07/26 昨日お呼びかけした曽野綾子氏著作復刊の件、クライン孝子さんの「孝子日記」でもお願いしたのですが、スゴイ効果がありました。全部かどうか分かりませんが相当に寄与したと思います。ありがとうございました。
−−復刊ドットコムより−− これはもう復刊間違いなしですね。しかし、おそろしく重い本です。おそろしく、重い・・・。
渡部昇一先生が、 これは言論における基本的なモラルでしょう。孫引きはしない、ということです。今回の渡嘉敷島における集団自決の問題も、情報はどこから出たのか。曽野綾子氏は記します。
それを原典と考える根拠を曽野さんは記していますが、驚いたことに取材源となった証言者二人の聴取は、現地でなく那覇で行われ、
ad fontes にほど遠いものが原典となったのです。 曽野さんは渡嘉敷島で現実にあった集団自決の詳細を直接当事者から聴取し冷酷とも思える文体で描写しています。そして、
これは今もなおわが国「報道」の病根でしょうね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2005/08/02 先月の26,27日に「渡嘉敷島集団自決」について書きました。集団自決を命令したとされる「赤松大尉」の弟と、守備隊長であった生存者が、大江健三郎氏、岩波書店を、名誉毀損で訴えるというものです。
私はこの一文を書くために、
「鉄の暴風」は1980年版ですが、
ということですから、ほぼ初版本なのでしょう。但し曽野綾子氏の指摘する重要な3月26日は、27日に訂正されているようです。
大江健三郎氏の「沖縄ノート」は1994年版です。初版は1970年9月ですね。
を読んで、ああこの人は心底日本人がキライなんだな、と思いました。(→) 以上を踏まえ自分のコメントを付けようと思いましたが、曽野綾子先生の端的痛切な言葉が『首相官邸』サイトにありました。裁判云々は別にしても、大江さんは答えなければいけないでしょうね。 ひとを攻撃するとき、私たちは最も誠実でなければならない。言論を使うなら、使うのは自らが確認した根拠にのみ限らなければならない。それがその人間の品格でしょう。
=以下、曽野綾子氏の「司法制度改革審議会」における発言=
【曽野委員】 ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。この話は、終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件です。当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていました。 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。
当時の資料を列挙しますと、1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』3)渡嘉敷村、座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著)6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦)7)琉球政府『沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著)8)岩波書店『沖縄ノート』(大江健三郎著)9)平凡社『悲劇の沖縄戦』「太陽」(浦崎純著)
私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。 当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。 第二に、資料です。 先に述べました資料のうち、1〜3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。 |