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2008/09/30cc-Dumbo
投稿者:ダンボ 投稿日:2008年10月
1日(水)13時52分53秒
ノムさん、ちゃんと本田神父の姿をカメラに収めていらっしゃったんですね。
編集、ありがとうございました。
あの姿を見て、間違って清貧と思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、あれは、清貧の精神からではなく、単にご本人の趣味です。
本来のフランシスカンの清貧の精神でいくなら、修道会から与えられた修道服をどんな時も着るのが、清貧です。ボロボロになるまで、継ぎあてをして着ている修道者もいるのです。
修道服があるのに、それは放っておいて、楽な服装をするのが清貧ではないのです。
朱に交われば赤くなるの諺どおり、ヘドロに交われば、心も濁るのでしょう。
ご高齢の外国人司祭まで同じ共同体ゆえでしょうか、本田神父の影響を受けて、ごミサにあずかるたびに、あまりの変わりように、昔から知っている信徒は涙を禁じえないという話を聞きました。
釜が崎で日々行われている、聖体祭儀?(まがい?)によって、日々、イエス様を冒涜し、聖体を軽んじていることは聖フランシスコのご聖体に対する畏敬の念を踏みにじる行動です。
それに共に与る修道者(シスター方)も、同罪だと思います。
そして、同じ共同体の人間としてそれを黙認している生野修道院の司祭・修道士も。
フランシスコ会生野修道院メンバーは、聖フランシスコがご聖体に対してどのような態度を取られたか知らないわけがないでしょうに。
生野修道院メンバーも全員、本田神父に洗脳されたのでしたら、フランシスカンを名乗らずに、本田教でも作ればいいものを。
一方、六甲教会でホアン・マシア神父の聖書の会は、人気を集めているそうです。
それは、新しい聖書の解釈だそうで、カトリックの聖書の解釈が変わることはなく新しい解釈とは、人間本位の、自分たちに楽な解釈なのです。
人間は傲慢で、全てを自分の知恵だけで理解したくなるのでしょう。自分の知恵で理解しがたいことは、解釈を捻じ曲げ矮小化するのです。
そんな時こそ、信仰が問われるのであって、神の御助けによって受け入れられる時まで、心に留めるものなのに。
信者が楽な方にばかり流れて行っては、地の塩には成り得ないのです。
六甲教会でのミサの説教も、最近はこのような解釈による説教が増えて、正統な解釈や教義を知っている信者は、こちらでも涙ぐまれています。
元ページ
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2008/09/080930bb.html
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