2004.10.8&12 清渓川

私が「清渓川」の名を知ったのは、朝鮮日報Webサイトの下の記事からでした。

朝鮮日報-記事入力 : 2004/06/30 18:41
【清渓川復元工事着工から1年】

清渓(チョンゲ)川の復元工事が昨年7月1日の着工から1年を迎えた。工程率は60%を超えたが、洪水防止対策と広(クァン)橋などの文化財復元計画のめどが立っていないと指摘されている。

サイトを検索しますと「清渓川復元推進本部」のページがありました。
http://japanese.seoul.go.kr/chungaehome/seoul/2sub_body2.htm

現実に使用されている高架高速道路を、取り壊して川を復元する、そのことに強い興味を持ちました。

私は東京のことを思いました。東京ほど「高架道路」で空を塞ぎ川を覆った都市は、世界に類がありません。東京の道路の美のなさは、高架道路、歩道橋、道端のガードレール、が原因と 私は思っています。 加えて多すぎる信号灯があります。放り出されたゴミ袋もあります。

「歩道橋」というのは私が知る範囲の世界の都市で見ませんね。ソウルにも勿論ありません。あれは景観のみならず安全の面からも大きな問題ではないでしょうか。テロリストに何カ所か落とされるだけで、車輌通行は遮断されるのではないでしょうか。

ガードレールというものも、外国ではほとんど見ません。無くはないですが限られた場所と思います。日本でも実はガードレールの少ない町はあります。奈良市をはじめとして、奈良県下は概してそうですね。
ガードレールについての考察は、ここにもありますので、あとでご覧になって下さい。なおここに出る徳島県・吉野川は、大雨のあとでした (2000年9月)。しかし平然と受け入れていました。今年(2004年)は更に記録的な大雨の年でした。大形台風が数個(三つ以上と思います)四国・徳島を直撃しました。しかし吉野川に関するニュースを聞きません。わが四国三郎(吉野川)は 豪雨を悠然と受け入れたのでしょう。しかしその川になお数十年、地域住民の反対にかかわらず「可動堰」建設の意志を、国交省は捨てません。

里程出発点

清渓川の前に、[東京・日本橋]1999年8月30日

 

「日本橋一丁目」に、「日本橋由来記」と刻まれたブロンドのプレートが飾られています。

「日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ。・・・・」

室町側に渡りますと、「東京市道路元標」という石碑があります。左右に、北は札幌、南は鹿児島に至る里程の刻印された御影石が
置かれています。ここが日本の里程の出発点であったのです。「日本橋室町一丁目」です。

そこを日本橋川沿いに右へ渡りますと「日本橋魚河岸発祥の地」の碑と、水神さん(と思える)石像があります。
日本橋は、そういう橋なのです。

「日本橋は慶長九年(1604年)、幕府により整備された五街道の起点となりました。」
「日本橋魚河岸の起こりは、幕府に納めた魚介類の残りを、この地にて一般にも販売するようになったことによります。」
「現在の日本橋は明治四十四年(1911年)に完成した、花崗岩製の二連アーチ橋です。」
「この橋の日本橋の文字は15代将軍徳川慶喜の筆によるものだそうです。」
(以上「江戸の街を訪ねて」より)

更に、東京都中央区の広報によれば、
「日本橋という名は、私たちにとってこれ以外に付けようのない馴染み深い橋名です。」
とあります。
これが日本橋です。日本の道路の、起点の場所です。

そも如何なる神経の持ち主が、この橋、そして日本橋川を、首都高速という醜悪な構築物で覆ったのか。由緒ある日本橋を屋根裏にし、日本橋川を暗渠とした。なぜ、このような破壊が平然と行われたのか。日本橋は日のあたらぬ首都高速の屋根裏となり、川は黄泉の流れになってしまいました。

国を愛する、それは、そこに在る人、在る景観、そしてそこにある歴史を愛するのでしょう。景観の美しさは必ず愛国心に繋がるのです。人は、美しいものを大切にし、愛するのです。

日本橋をこのように醜悪な鉄の構築物で覆って平気な人々に、愛国心をいう資格はないと思います。

上野駅前は首都高速で死にました。
六本木も死にました。
人々が幸せに散策するのは、上に抜けた空があるからです。日本橋は、日本の景観破壊の象徴です。同じ神経が、美しかった渓谷の温泉地にホテルというコンクリートをぶち込んで破壊しました。河川も海岸も傷め尽くしました。日本橋川も、もっともっと美しく使えたはずです。 つぶされた多くの運河。数寄屋橋も生かしていれば、 もっとロマンある街を造れたかも知れないのに。いい都市は、必ずいい水辺を持っています。東京や大阪は、それをどんどん埋めてしまいました。
もういい、止めて呉れ。高架道路は作らないで呉れ。そして、川を、海を、傷めないで呉れ。川を、復元してくれ。

[ソウル 清渓川2004.10.08-12]

今回のソウルへの旅は二つの目的がありました。臨津江(イムジンガン)越しに北朝鮮を望見すること、清渓川の復元工事を見ること、でした。

10月8日午後、ソウル到着後すぐ知人の目的である「京東薬令市場」へ付いていきました。そこに清渓川があることも教わっていました。

「京東薬令市場」近くの清渓川はまだ工事が為されていず、そのため却って原型を見ることができました。

地下鉄一号線「祭基洞(チェギドン)」(京東薬令市場最寄)の清渓川。この高架道路の下が川です。状況は日本橋に似ています。

 
2004.10.12朝、清渓川の工事現場を見に行きました。ウェスチン・チョスンより鐘路タワーへ向かって六分ほどでした。
早朝七時半でしたが既に活発に仕事はされていました。端は朝鮮日報社のある太平路で、そこから東大門近くまで歩きました。工事はまだその先 に続いていました。11時すぎまで、四時間近くを使いましたが退屈しませんでした。午後三時金浦発の帰国だったので、11時半にホテルへ帰りました。
 
途中にあった「清渓川弘報館」
受付の女性が歓迎して下さって、館内の展示物をこまかく説明して呉れました。彼女は韓国語で私は日本語でしたが、大筋は分かり合えたと思います。お茶までご馳走にな りました。ここに30分あまり居ました。

写真はダメだと逃げられました。きれいなオバサンだったのに。

旧高架道路橋桁の解体です。
旧設備が右に残っていますが、工事用に残して利用されています。

[清渓川復元推進本部・ソウルの夢と希望 清渓川]より

ソウルという大都会の中心を貫通するこのような道路をぶっこわして、この下に隠れている川をよみがえらそうというのです。考えるだけでも壮大ですが、実際にやってのけつつあります。「気力」とか、「気合」というものを感じましたね。

[清渓川復元推進本部・ソウルの夢と希望 清渓川]より

来年はこんな風になる予定。

[清渓川復元推進本部・ソウルの夢と希望 清渓川]より

 
工事の起点はブルーに着色した左端です。太平路に突き当たっていますが、地図で見て上下には、李舜臣将軍像、光化門、東亜日報社、朝鮮日報社、ソウル支庁、徳寿宮、等々が並んでいます。

私は普段は安宿探しが趣味なのですが、今回は事情があって(二日間現地で集合する仲間が安宿きらいなメンバーだったので)ウェスチン・チョスンに四泊するハメになりました。清渓川はそこからでも歩いて六分ほどの場所でした。正に、「都心」を貫いている道路だったのです。

東大門の印のところまで歩きました。まだまだ工事は右方向に伸びていました。

ソウルから帰った直後、こんな記事が出ていました。
日本経済新聞2004.10.15夕刊の記事 (クリックして下さい)

韓国の旅
ノムさんの旅

ノムさんのエッセー
やまて喫茶室