2014年3月14日
「竹林はるか遠く」
そして、韓国人の“反日”について

 

“So Far from the Bamboo Grove”という本の存在を、私は随分前から知っていました。もともと朝鮮半島に興味があったので、その一環として知ったのでしょう。それにしては和訳の無いのを不思議に思い、待ち望んでいました。今回、おそらくは最も適切な訳者を得て、日本語版が出ました。私が漠然と想像していた内容と異なりましたが、十分に感動しました。私が想像していたのは、敗残の日本人が朝鮮人に、もっともっとひどいことをされたのであろうと言うことでした。そのような状況が描かれていない訳ではありませんが、筆者がそれを書くことを目的としていないことは明らかです。





ところで、原著者である ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ さんは、「あとがき」で、次のように書いています。

この本がアメリカで出版されて二十年経った二〇〇六年の秋、ボストン近辺に住む在米二世韓国人たちが突如怒りを爆発させました。
本書はアメリカで中学生の教材として採用されていたのですが、その内容について、「日本人を被害者にし、長年の日帝侵略が朝鮮人民に対して被害、犠牲、苦痛を与えた歴史を正確に書いていない」「強姦についても写実的に書いており、中学生の読むのにふさわしい本ではない」といった理由をつけて、本を教材からはずす運動をあらゆる手段を使ってやり始めたのです。
さらに、「著者の父親が七三一部隊に属していた悪名高い戦犯であり、また慰安婦を満州に送った悪者である」といった事実に反することも言い始めました。そこにボストン駐在韓国領事も仲間に加わり、この動きが世界中に広まったのです。


この動きの顛末がどうなったのか、記されていません。
韓国紙 『中央日報』日本語版にある次の記事を転記します。ほぼ公平な文章であると思うのと、私がまとめる以上に的確に、本の内容を解説して呉れているからです。ただ一か所、あまりにもあっさりと通り過ぎたところがあります。その部分はこの一冊の白眉であり、希望であり、おそらくは崇高な物語です。あとで触れます。
 

[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
2007年01月23日10時34分
『竹の森遠く』最後まで読んでみたら…

少女は英語が分からなかった。
日本の警察が突然入ってきて家の金目のものをひとつ残らず奪っていく理由を12歳の少女は知らかった。母親のメガネまでひったくって行く警察に少女は噛み付き、警察は軍靴で彼女を踏み付けた。それでも少女は戦争が何だか分からなかった。

豆満江近くの村の日本人少女にとって戦争は、まともに電気を灯して暮らすことができないようにする厄介な日々であるだけだった。父と兄を残したまま、母、姉と一緒にソウル行きの患者護送列車に便乗したある日の夜も、少女は戦争が何なのか分からずにいた。

満洲の日本政府で働く父のため、人民軍たちがこの母娘を捜し回っていることを知り、自ら汽車から降りてソウルに向かうときも、少女はお腹がすいてつらかったし、早く歩けと急き立てる姉が憎かった。

爆弾の破片を受けて胸からうみが流れ、一方、聴力をほとんど失っても、少女はひたすら歩かされた。
やっとのことでソウル駅に到着した3人の母娘。しかし兄は現われない。駅で雑魚寝をし、食堂のゴミ箱から食べ物を探しながら、少女は兄を待つ。そして5週間が経ち、母娘は釜山(プサン)行きの列車に乗る。

戦争は終わった後で、朝鮮人たちが日本人たちに反撃していた。ソウルは日本人の女性に安全な所とはいえなかった。母は2人の娘を男の子のように扱う。釜山生活も疲れてだるいのは同じだった。

同じ日本人も母娘には慰めになれなかった。日本人の男は日本の女性の所持品を狙ったし、朝鮮の男は日本の女性の体を狙った。3人の女性には世の中すべてが敵だった。

10月になって母娘は福岡行きの船に乗りこむ--。

先週、世論の袋叩きに遭った小説『竹の森遠く(韓国題:ヨーコ物語)』(文学トンネ刊)の前半の筋書きだ。後半部も内容は大きく違わない。母女の苦行は本土にもつながる。

親戚とは連絡が絶たれ、難民収容所に隔離された母娘はゴミ箱をあさる。母親が亡くなり、姉妹だけぽつんと残されるが、それでも姉妹は学校に行こうとする。翌年春、兄が帰還して小説は終わる。

1人で避難してきた兄は38線近くで金という男性の助けでようやく生き返ることができた。

小説は言わば、12歳の少女の波乱万丈避難記だ。

日本人ヨーコ・カワシマ・ウィキンスさん(74)が60年前にもなる12歳の記憶をもとに小説を書いたものだ。だから事実と違うことがあるかもしれない。記憶というのは本来、完全であるといえるかどうかわからない。少女が住んだ豆満江(トゥマンガン)付近は、竹が生育できない気候であり、ソ連軍が参戦した日付や爆撃機の種類も小説が記述したものと歴史とは違っている。多くの脈絡から見た場合、少女の父はマルタ実験を行った731部隊所属である可能性もある。

それにしても小説のメッセージは大きく変わらないと思う。朝鮮人が日本人を性的暴行する場面も小説のテーマは変えることはできないと信じる。

否定的だったが悪意的ではなかった。小説は戦争の血生ぐささを物語っていた。少女にとって敵は朝鮮だけではなかった。飢えであり、貧乏であり、日本でもあった。

我々としては当然気分が悪い。いきなりののしることから始めることではないと思う。

敢えてこの本の責任の先が誰かを言わなければならないとすれば、判断のつかない子供たちにこの本を勧めた米国政府だろう。大きくなった大人が読む小説と、子供たちが声に出して読む教材とは次元が違う。

小説を読んだ2000人中の1人としてあえて言ってみた。

 

終戦真際の昭和20年(1945年)7月29日の真夜中、著者の擁子さんは母、姉に連れられ、ソヴィエト連邦(ロシア)国境近くの町「羅南」から、満州鉄道勤務の父、兵器工場に徴用された兄に置手紙を残して、脱出します。

その道中で確かに強姦についても書かれていますが直接的な表現でなく、また明らかに、強姦を書くことが目的でもありません。この本を読んで、「2006年の秋、ボストン近辺に住む在米二世韓国人たちが突如怒りを爆発」させたそうですが、最近の執拗な反日言行といい、日本人とは質の異なる国民性の人々と思い知ります。

むしろ最終章に置かれた「金夫婦」とその長男次男家族の物語は、これだけで一つの舞台が想定できます。美しく崇高な物語です。中央日報の記者は、「1人で避難してきた兄は38線近くで金という男性の助けでようやく生き返ることができた」と簡単に書いておりますが、この末尾の物語故に、私は人間に希望を持ちます。

これは先に出発した母妹を追う、兄淑世(ひでよ)の物語です。
多くの危機をすり抜けて38度線近くまで落ち延びた淑世を吹雪が襲います。小さな農家、金家族は、夕食中でした。ドシンという音を風邪かイノシシかと思ったのですが、戸をあけてみると、凍死寸前の日本人でした。ほとんど気を失っている淑世の凍っているゲートル、靴、靴下を脱がし、シャツを替え、足や体をマッサージしました。乾燥唐辛子を靴下の中に入れ、毛皮のコートで包みました。唐辛子の粉を胸に散らせ、マッサージを続けました。ニンニクを粉にして湯に入れ、むりやり飲ませました。主人の金さんはことの意味を認識し、家族にも言い聞かせます。「万が一、その子が死んだり、誰かに私たちが日本人の男の子を救助していたことを知られたら、私たちは賞金のために密告され、処刑される。いいか、みんな、その子は私の甥ということにしよう。両親は日本人に殺され、私たちと一緒に住むようになったのだ。分かったか。これなら安全だからな」

金さんは、「命をかけて」、行き倒れの日本人若者を救ったのです。

春の終わりに、淑世は38度線、イムジン川を渡ります。
金さん家族のその後は、書かれる由もありませんが、38度線の北で、平安な生涯が送れたとは思えません。しかし淑世さんの心に、そして擁子さんの物語に、生き続けるでしょう。

私は、このような作品を排斥した在米韓国人の心根が分かりません。

 

私はこの『竹林はるか遠く』を二人の方に送りました。

お一人は重松髜修(マサナオ、マサは高+昇)先生のご長女で、擁子さんと同じように、北朝鮮から引き揚げられた方です。髪を切り、顔に墨を塗ったとおききしました。この方も帰国の過程で、朝鮮人から「命をかけて」 、道案内されています。『竹林はるか遠く』に私は感動しましたが、この方にとっては“感動”とはかけ離れたものでしょうね。そのことも手紙にはお書きしました。私は体験者でないから「感動」するのです。体験者はおそらく、感動など出来ないと思います。

お送りしたもうお一人は、重松夫人を紹介して下さったY氏です。

 

さて以下は余談のようなものです。・・・

韓国の余りに執拗な“反日言動”ですが、何か私の心がそうであるからみんながそうであるように見えるのか知れませんが、かの国に対する心が“冷めてしまった”気がします。この修復は年単位では不可能のように思います。キレタ、と言いますが、そんな感じです。

最近のマスコミの韓国報道が、遠慮会釈なきものになりました。二年ほど前までは、ここまで露骨でなかったと思います。これだけ韓国記事が出るということは、売れるからでしょう。韓国を褒めた記事は見当たりません。

 

朴槿恵大統領に私は期待したのですが、まったくの見込み違いでした。「恨みは千年も忘れない」と本当に彼女が語ったとすれば、政治家の言葉ではないですね。昨日の敵が今日の友、その逆の常在が、政治の世界でしょう。

私はこれほどまで頑なに彼女が日本を攻撃するのは、父親・朴正煕大統領の存在故と思います。故朴大統領は日本名を高木正雄といい、日本陸軍士官学校を卒業、満州国軍中尉で終戦を迎えています。激しい反対の中、1965年6月22日、日韓基本条約を結びました。これは「親日」と言われる十分な条件を備えているでしょう。現大統領はその長女であり、1974年8月15日、陸英修大統領夫人が文世光によって射殺された後、5年に亘ってファースト・レディを務めました。李明博前大統領が傷つけた日韓関係を修復すれば、何を言われるか分からない。むしろ前大統領以上に日本を攻撃することによって、自分への攻撃を防いだのでしょう。しかしよくあることで、そのうちに本当に高揚してしまいました(ヒスというやつです)。後戻りできなくなったのでしょう。放っておくしか手はありません。

 

河野談話や朝日新聞を先頭にした慰安婦関連報道にしても、そのことによって日韓双方にプラスになったものはあるでしょうか? 片方だけにすらプラスは無く、双方にマイナスだったと思います。

日本と韓国の、仲の悪い方が、好都合な国はどこでしょうか。

北朝鮮と中国、が思い浮かびます。私は日本は勿論、韓国においても、北朝鮮・中国の工作が、長年に亘って継続されて来たと思います。韓国人の味方のふりをして、本当の目的は日韓の離反なのです。確か共産党も社民党(社会党)も、韓国を認めていませんでした。今は「反日」を吹き込んでいます。目的は首尾一貫して日韓の離反であることを、認識する必要があります。

 

長くなりました。最後に「慰安婦像」のことですが、作りたければいくらでも作らせてやれば良いと思います。日本人はそんな恥ずかしいことはしない。世界の多くもそうでしょう。そんなものを見たことがない。いっぱい作らせて、それが韓国人であることを、世界に知らしめれば良いのです。百年か二百年かすれば、自ら撤去に動くでしょう。

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