2014年5月1日
「教育勅語」と、「教育基本法」

 

先月7日徳島で、私は恩師森岡博美先生にお目にかかり、「昭和23年6月19日、教育勅語が衆議院で全否定された」と聞かされました。帰宅後、私は「国会会議録検索システム」で調べました。確かにその日、衆議院において「教育勅語等排除に関する決議」、参議院において「教育勅語等の失効確認に関する決議」が為されています。更に興味を引いたのは、本議案発議者の一人で代表格が、元文部大臣・田中耕太郎氏であったことです。田中耕太郎氏はカトリック信徒でした。

その話題を仲間に流しました。夙川在住の畏友・河野定男氏より、ショックを受けたとのメールを貰いました。その河野氏の感想を受けて、私は更に文部大臣時代の田中耕太郎氏の関連発言、並びに高橋誠一郎氏のそれに興味を持ちました。国会会議録よりダウンロード、河野さんを含む仲間に配布しました。(当該資料はリンク設定してあります)。以下はそれを精読された上での河野さんの所感です。なお末尾で紹介する河野さんの旧文、『何故いけない?教育基本法改正』は、是非皆様にお読み頂きたいと思います。このような正面からの質問には、本当に残念ですが、回答はありません。「教導」が何であるか、羊は放置されたままです。

 

==以下、河野定男氏の文章==

件名: 教育勅語排除・失効決議
送信者 : 河野定男
日付: 2014年04月30日 午後 2:50


野村さん
皆様

河野です。

教育勅語(明治23年、1890年10月発布-帝国憲法発布の翌年)は、1948年6月に衆院で「教育勅語の排除決議」、参院で「教育勅語の失効確認決議」がなされました。

参院の失効決議の発議者の一人が熱心なカトリック信徒であった田中耕太郎(第1次吉田内閣の文部大臣1946/5月-1947/1月)であった事実を野村さんから教えられ、わたしは少々ショックでした。

というのは、まず教育勅語の内容はカトリック倫理によくマッチしたものであるとわたしは思っていたからです。
そして、熱心なカトリック信者としてよく知られているドイツのアデナウワー首相の執務室にはドイツ語版の教育勅語が貼られていたという話や、(戦後にできた)栄光学園の初代校長グスタフ・フォス神父は自分の授業に教育勅語の内容を説いていたという話を、何かの本で読んだことがあったからです。

また、月刊誌の「正論」2007年2月号に掲載された齋藤久吉氏の論文
「教育基本法『改正』で揺れるカトリック教会」
で新憲法(施行1947年5月3日)や(改正前の)教育基本法(施行1947年3月31日)が制定された当時の政府は教育勅語を否定していないと指摘して、
「政府は国会で、『教育勅語が今後も倫理教育の根本原理として維持せられなければならない』(田中耕太郎文相)、
『教育基本法の法案は教育勅語の良き精神が引き継がれ居ります』(高橋誠一郎文相)
と答弁しています。」と書いており、田中耕太郎が教育勅語の強い支持者であったことが示されています。

このことを野村さんに申上げたところ、早速当時の国会議事録を調べてくださり、新憲法制定議会(正しくは帝国憲法改正案審議)における文部大臣田中耕太郎の答弁(1946年6月-9月)《ksy-m0060》、
教育基本法を制定する議会での文部大臣高橋誠一郎の答弁(1947年3月)《ksy-m0061》、
及び「教育勅語失効確認」の決議案を提出した参院文教委員会の委員長としての田中耕太郎の発言(1948年5月-6月)《ksy-m0062
を検索し、ksy-materialに掲載してくださいました。この三つの資料はたいへん貴重なものと考えます。

m0060とm0061を一読すれば、戦後の教育基本法は、教育勅語の精神を前提にして制定されたもの、あるいは教育勅語と教育基本法は矛盾するものではなく、両者相補うものであったことが良く判ります。事実教育基本法は1947年3月末から1948年6月末までの1年3か月の間、教育勅語と併存していました。また、基本法制定議会の1947年3月22日貴族院本会議での高橋誠一郎文相の答弁に次のような箇所があります。
「新しい教育の方針を定めまするが為には(教育基本法のことを指す)、唯先程も申上げましたやうに、法律の形態を以てすべきであると云ふ考に到達致したのでございます、この法案の中には、教育勅語の良き精神が引継がれて居りまするし、又不十分な点、表現の不適当な点も改めて表現せられて居ると考へるのであります、教育勅語を敢えて廃止するという考へはないでのございまするが、教育勅語を是迄のやうに学校で式日などに奉読致しますることは、之を廃止したいのでございます、・・」(m0061の2頁)

また、m0060の新憲法制定議会において田中耕太郎文相は教育勅語に関して、神憑り的態度で教育勅語に接することは改めるべきだし、また付加すべき点はあるものの、教育勅語は、
「全体から見まして、古今に通じて謬らず中外に施して悖らざる原理が盛られていると云ふことは、何人も否定できないこと」(1946年9月9日貴族院、m60の3頁)
であり、
「教育勅語が今後の倫理教育の根本原理として維持せられなければならないかどうかと云ふことにつきましては、結論を申上げますと、之を廃止する必要を認めないばかりでなく、却て其の精神を理解し昂揚する必要があると存ずるのであります、・・・民主主義の時代になったからと云って、教育勅語が意義を失ったとか、或いは廃止せられるべきものだと云ふやうな見解は、政府の採らざる所であります」
と述べています(1946年6月27日衆院本会議、m60の5頁)。
従って前述の齋藤氏の論文における田中、高橋両文相の発言引用は、ほぼ正確なものであると云えると思います。

このような考えの田中耕太郎が、なぜ「教育勅語の失効確認決議」の発議者の一人となったのか、という疑問が当然でてきます。この疑問を解くには、GHQの教育勅語の廃止命令が出て、それに政府、及び国会は従わざるを得なかったという事情(高橋史朗「教育勅語の廃止過程」)があったことを考慮しなければ理解できないと、わたしは思います。つまり、田中は自ら率先して教育勅語の失効決議の発議者となったわけではなく、参院文教委員会の委員長という立場上、仕方なく発議者の一人になったと推測できます。1948年6月15日の参院文教委員会での田中の次の発言は、その推測の裏付けになるのではないでしょうか。
「教育勅語の失効確認に関する決議案は如何にして本会議に上程するかという問題でございまして・・・発議者をどういうふにいたしたらよいかということでございます。私自身の考えましたところでは、文教委員の方々全部が発議者になって頂くのが適当ではないかと存じます。この問題は、委員会自体として審議して参ったわけではございません。そのために打合会の形式を取って参ったのでございますが、実質上は、この問題については委員の方々が一番詳しいのでございまして・・・」(m0062の4頁)

上記発言で「この問題は、委員会自体として審議して参ったわけではございません。」という箇所は、特に重要と考えます。文教委員には誰一人として、自らの意思で教育勅語の失効や排除を提案しようとする者はおらず、外部(つまりGHQ)の圧力からあったので教育勅語の失効確認問題を取り上げたと示唆しているように考えられるからです。

そして6月19日の決議案の参院本会議への上程主旨説明の中で田中は、
「我々の考えによりますると、教育勅語等は新憲法第九十八条第一項の中に規程していますところの憲法の条規違反の詔勅として無効となるものではございません」(m0062の7頁)
と強調している点も注目すべきだと思います。教育勅語の精神は今後も道徳訓としては、活かしていくべきだとの意思の遠回しの表現ではないかと、私には思えるからです。
(憲法98条1項:この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。)

以上の理由から田中耕太郎が教育勅語の失効確認の発議者の一人であったことを聞いて受けたショックは解消するに至りました。

 

==資料==

ksy-m0060  田中耕太郎文部大臣
帝國議会における「教育勅語」関連発言 

ksy-m0061  高橋誠一郎文部大臣
帝國議会における「教育勅語」関連発言 

ksy-m0062
教育勅語等の失効確認並びに排除、田中耕太郎 参議院における関連発言 昭和23年6月19日 

 

河野定男 2006年7月5日
松浦悟郎司教への質問状
『何故いけない?教育基本法改正』

日本カトリック正義と平和協議会(正平協)
『教育基本法改定案に反対する』

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