2014年5月12日
黒澤明 「七人の侍」
 

「集団的自衛権」が長年政治問題となっています。本件に関して、「砂川事件」、いわゆる「伊達判決」が否定された、昭和34年12月16日最高裁判所大法廷判決が注目されています。判決文の中に“田中耕太郎裁判官「補足意見」”というのがあり、私たち仲間は「防衛」「集団的自衛権」について、その「補足意見」をカトリック教会の教えと照合して、検討しています。何故ならば、田中耕太郎氏は熱心なカトリック信徒でありました。そして、現在の日本のカトリック教会中枢は、田中氏見解とは対極の立場を取っています。田中氏補足意見の中に、次のような言葉があります。

さらに一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従つて一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。

ところで、上記最高裁判決の五年余前に、黒澤明監督『七人の侍』は封切られています。その中で志村喬演ずる島田勘兵衛が語る次の言葉があります。

離れ家は三つ、部落の家は二十だ。三軒のために二十軒を危うくは出来ん。また、この部落を踏みにじられて、離れ家の生きる道はない。いいかッ! 戦とは、そういうものだ。他人(ヒト)を守ってこそ自分も守れる。おのれの事ばかり考える奴は、おのれをも亡ぼす奴だ。今後・・・そういう奴は・・・。(岩波書店「黒澤明全集」による)

田中耕太郎最高裁補足意見を五年以上遡って、簡明に語っています。又、

燃えていねえのは、侍を傭ったその村だけだった。(岩波書店「黒澤明全集」による)

これは「防衛」「防衛力」でしょう。侍を傭わなかった(武力を持たなかった)村は焼かれ、侍を傭った村が残ったのです。黒澤明の『七人の侍』は、正に「防衛」「集団自衛」がテーマの映画でありました。

『七人の侍』についてのこうした観点を教えて下さったのは、田中秀雄氏の『映画に見る東アジアの近代』という書物でした。『七人の侍』は実に生々しい映画であったのです。最高度のエンターテインメントの装いの影に、骨太のテーマが置かれていたのでした。今更ながら凄い監督であったと思います。

[固定アドレス]
[Home]

本文発信者は「野村かつよし」です。ご意見はこちらへ→