2014年5月14日
パンドラの約束

[追記]5月15日 石炭は危険でないのか
 

先週、映画『パンドラの約束』を観ました。私には特に驚くこともない、ごく自然な主張の映画でした。ただ一箇所だけ、私が全く知らなかったことがありました。(プログラムにシナリオが掲載されていますので、それをコピーします)

○ロシアの核弾頭の再利用
スチュアート・ブランド(環境運動家)の発言
「米国がロシアから核弾頭を10年以上買い続けていることが明らかになっています。16,000もの核弾頭をです。その核弾頭全てをエネルギーに再利用しています。原発が核兵器を減らしています。」

○全米の夜景
スチュアート・ブランド
「これは美しいです。街を爆破するために造られた物が今や街の明かりを灯す為使われる。米国の電力の20%を担う原子力の半分はロシアの核兵器を再利用したものです。理想は世界中の核兵器が全て電力に代わることです。」

この言葉を仲間に知らせました。
「著名な活動家がいい加減なことは言わないと思いますので、(という論理に、何の根拠もない? いい加減なことをいう著名な活動家はいっぱいいますから)、まあ信じるとして、アメリカの電力の20%は原子力、その原子力の半分(即ち総電力の10%)は、ロシア=ソ連の核弾頭を燃料にしているというのです。原発が核兵器を減らしているというのです。
次世代(第四世代)原発が色んな可能性を含めて研究されています。多くの研究者たちは、“核廃棄物”と言われているものが、未来性を持つ巨大な資源であると捉えていると思います。ビル・ゲイツが原発開発に千億円規模の投資をしていることは、よく知られています。ビル・ゲイツは慈善活動家として有名ですが、原子力に目を向けているのは、福祉の向上にはエネルギーが不可欠であるからです。」

上に対して、河野定男氏から、下のメールが届きました。

映画「パンドラの約束」に出てくる米国がロシアの核弾頭を買い取り、それを原発のエネルギーに再利用しているという話が本当なら、核兵器削減への具体的且つ効果的ステップであることは明らかなのに、なぜマスコミなどで報道されないか不思議に思います。軍事機密に属することだからでしょうか。
わたしの愛読している藤沢数希著『「反原発」の不都合な真実』(新潮新書2012年2月刊)の156頁に「実は日本の原子力発電所で使われるウラン235の多くは、核兵器を解体して取り出されたものです。原子力発電所はこのように核兵器を解体する経済的なインセンティブを与えることにより、核兵器の削減に非常に役に立っているのです」という記述があります。

教皇ピオ12世は核兵器の廃絶と核の平和利用を推進しようとされた教皇で、IAEA(国際原子力機関)設立に積極的に寄与されたと聞きます。ヴァチカンはIAEAの加盟国です。

「野村です。
『パンドラの約束』プログラム(800円)にシナリオが入っています。映画には時々あることですが、親切であると思います。このような映画という場で、メジャーな監督や活動家が、すぐ底の割れるデタラメをいうはずは無いと思います。事実なのだろうと思います。マスコミが報道しないのは、単に、報道したくないからだと思います。それにしても、核廃絶を叫ぶ人は、今、現実に存在する核兵器を、どうする積りなんですかね。そこらに放っておけば良いと思っているのですか。おそらく何も思っていないと思います。考えていないでしょう。何故なら、核廃絶など実現するはずが無いと、本当は信じているからです。」

下は、私たちの司教が2012年1月15日になさったお説教の一部分です。(教区報より)

わたしたちは、どういう社会を望むのか。たとえ人命を犠牲にしたとしても、なおひたすらに利便性を求めた便利な生活を望むのかという問いかけです。わたしたちはこれからも大量消費を是とした消費社会を求めていくべきなのでしょうか。

カトリック教会としてわたしたちは原発の問題を科学技術や経済の観点そのものから専門的に検討し議論する技量を持ち合わせているわけではありません。原発の問題は、推進から廃止まで含めて、さまざまな解釈があり得ますし、また実際いろいろな考え方があります。しかし、キリスト者としてこの問題を受けとめるとき、最終的には「人問のいのち」に関わる問題として受けとめるべきだと考えているのです。

原発事故で避難を余儀なくされ、家族が離散してしまったその子どもが「電気なんか要らないから家族と一緒に暮らしたい」と叫んでいたその子どもの健気な姿を忘れることはできません。わたしたちに価値観の選択を迫る叫びではないかと思います。「何を大切に生きるか」、「ほんとうの幸せとは」ということです。

「電気なんか要らないから家族と一緒に暮らしたい」と叫んだ子供の叫びは、その時の真実と思いますが、それは持続する真実でしょうか。ある特異な状況の中で発した言葉を、普遍的なものと捉える浅薄さは、無いでしょうか。電気が無い、という状況への想像力は十分でしょうか。その少女に本当に電気の無い生活を与えて、彼女が同じ言葉を語り続けると思えるのでしょうか。私には子供っぽい理解に見えます。電気の無い生活がどのようなものか、私にもよく分かりませんが、私の子供時代は、非常に乏しい電力事情の中でありました。電灯が、風に揺れる蝋燭のように息づき、ふうっと消える。どのように面白い本も、そこで諦めなければならない。司教様の育った時代は既にその辛さを味わうことはなかったでしょう。

電力の欠乏は何よりも先ず“弱者”に辛く当たるのです。交通機関、エレベーター、エスカレーターを考えただけでも、老人をはじめハンデある人々の、行動を制約するでしょう。ビル・ゲイツが安価で安定した電力源として次世代原子力発電に注力するのは、いわゆる“後進国”の発展、教育、医療、すべての根幹に十分な電力の供給が必須であるからです。

ところで、カトリック教会(ローマ教皇庁)は原子力発電を否定してはいません。2012年11月9日、教皇庁・正義と平和評議会議長のピーター・コドヴォ・アピア・タークソン枢機卿と、「今すぐ原発の廃止を!」主張する日本の正平協・谷会長(当時)の話し合いがありました。カトリック新聞2012年11月25日号は次のように報じています。

「(谷司教が)日本の司教団が昨年脱原発メッセージを出したことに関連し、原発に対する教皇庁の見解を再確認したところ、(タークソン枢機卿は)技術開発が進んでいることもあり、核廃棄物処理といった問題が解決するのを待つという面があることも説明した。他方、日本で政府に対し原発の安全や代替エネルギー研究などを要請することは重要だとも語った。」

「いのち」が第一だから原発を無くせ、と言い、ビル・ゲイツは同じ理由で、原発を開発しています。どうしてだろうと考えましたが、見ている層が違うのだと思います。私たちの司教が見ているのは、「ひたすらに利便性を求めた便利な生活を望む」人々であり、「大量消費を是とした消費社会を求めていく」人々です。大富豪のビル・ゲイツが見ているのは、電灯の灯らない、医療や教育は思いも及ばない、利便性や大量消費は、言葉すら慮外である人々です。その観点から、ダライ・ラマ14世も原発を肯定していました。

[追記] 2014年5月15日

トルコでの炭鉱事故が報ぜられています。
2011年の9月に二週間ほどトルコを訪れたことがあります。
イスタンブールには二泊三日滞在しましたが、とても笑顔の多い人々で、道を歩いているとバスの中から手を振って呉れる。店前で写真を撮ろうとすると奥から仲間を呼んで並んで呉れる。
トルコ航空も非常に感じの良いエアでした。
その後、トルコ・ボンドという投資信託に相当額を投資して、購入した直後に暴動が発生、一時は20%強下落しました。今は△8%くらいですが、長い目では楽観しています。

今回の炭鉱事故に心が痛みます。(トルコ・ボンドにも若干の影響が出ているようです)

私はずっと炭鉱事故に関心を持っていました。その理由は、原発の危険性を言う人が、なぜ石炭の危険性を言わないのか、ということです。
石炭関係の死者は、おそらく、原発の数百倍、数千倍と思います。
死者のみならずCO中毒患者も悲惨です。

三池三川鉱炭じん爆発から40年
主な炭鉱事故(産経?)
過去の主な炭鉱・鉱山事故(讀賣)
日本の主な炭鉱事故 wikipedia
中国の炭鉱事故死者

日本でも多くの炭鉱事故がありました。ところがその危険故に炭鉱の廃止を求めた組織を、寡聞にして知りません。今、反原発運動の先頭に立つ、大江健三郎、瀬戸内晴美(寂聴)、梅原猛、既に故人となられた井上ひさし、各先生方で、(当時既に相当の発信力を持つ著名人でしたが)、炭鉱の操業に反対した人を知りません。(私の記憶違いなら、ご教示下さい)。理由はどこにあるのだろうと、以前に考えたことがあります。私の結論は、「先生方には炭鉱事故は被害が及ばない」ということでした。炭鉱に対して先生方は“安全地帯”にいるのです。その意味で、“無関係”でした。放射能は、そうではありません。

“閉山”に頑強な抵抗をしたのが、炭労・総評を先頭とする陣営でした。印象的には、その人々は現在の「反原発」陣営に重なります。

[固定アドレス]
[Home]

本文発信者は「野村かつよし」です。ご意見はこちらへ→