2014年7月23日
司教団の病(四)
 

昨日(7/22)、私も含めた数人が、ある司教様と話し合う機会を得ました。内容については書けませんが、非常に誠実に対応して下さいました。短い時間でしたが、極めて有意義なひと時でした。全員、希望を持って帰りました。

 


それはそれとして、面白い記事を発見したので紹介し、関連した資料を、分かる範囲で添付します。今回は私見を最小限に留めます。


韓国、[中央日報]
http://japanese.joins.com/article/676/178676.html?servcode=100&sectcode=110
【社説】宗教界の一角のねじれた国家観、度を超えた=韓国
2013年11月25日13時04分

一部かもしれないが政治に向かう宗教家の越境行為がそろそろ度を超えている。特に先週天主教正義具現司祭団全州(チョンジュ)教区代表の時局ミサは政治対立の新たな火種をつける状況に達した。不法選挙糾弾と大統領の辞任要求というミサの趣旨自体が非常に政治的だった。

ミサの途中にある神父は北朝鮮の延坪島(ヨンピョンド)砲撃挑発に対しこのように話した。「NLL(北方限界線)問題がある地域で韓米軍事運動を継続すれば北朝鮮がどのようにしなければならないか? 北朝鮮から撃たなければならない。それが延坪島砲撃事件です」。

彼の発言の脈絡を見ればまるで韓国が延坪島を不法占拠しているように映る。また、その近くで韓国が米国と軍事訓練をしたので北朝鮮が撃つだけの理由はあったという話となる。戦死者とその遺族、そして軍将兵の心境は少しも配慮せず北朝鮮の反倫理的挑発に韓国が原因を提供したと転嫁したのだ。これが韓国の神父が、それも延坪島挑発3周忌に口にすることができる言葉なのか。これに対し人権という概念すらない北朝鮮の世襲政権に対しては批判しなかった。もっとも正義具現司祭団所属のある神父は以前の北朝鮮訪問当時に金日成(キム・イルソン)の墓地を参拝し、「将軍様、もう少し長生きされれば。残念です」と書いたというから、彼らの国家観と理念性をよく知ることができる。

正義具現司祭団のミサでは朴槿恵(パク・クネ)大統領の下野論も出てきた。国家情報院コメント事件が選挙不正であるから当選を認定できないという論理であるようだ。野党も超えようとしない「大統領選挙不服」の線をふわりと超えたわけだ。国家機関の大統領選挙介入疑惑に対しては現在司法手続きが進行中だ。その結果により真相究明と責任者処罰がなされる見込みだ。それでも神父が乗り出して大統領の下野を主張するのは司祭の本分を忘却した行ないだ。最初は司祭の話に耳を傾けろと力添えしていた民主党も議論が大きくなると線を引こうとするほどだ。

カトリック教会の教理書2442項は「政治構造や社会生活の組織に直接介入するのは教会神父らがすべきことではない」から始まる。司祭の直接的な政治介入を禁止したのだ。公然と政治活動をする正義具現司祭団の一部神父はこれに違反している。政教分離を明示した憲法の精神にも外れる。

司祭は一般信徒の精神的指導者だ。信徒の価値観と世論形成に大きな影響を与える。したがって司祭は対立で汚れた社会の中心に立ち愛と平和を伝播する責務を負う。果たして正義具現司祭団の時局ミサは呪いと扇動を排撃し愛と平和を伝えたのか。

きのう天主教ソウル大教区長の廉洙政(ヨム・スジョン)大主教はこのように話した。「ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が発表した『司祭の職務と生活指針』でも政治や社会活動に積極的に介入することにより教会的親交の分裂を引き起こす可能性があることを警告しました」。偏向的な政治行動をしている一部司祭が深く熟考しなければならない言葉だ。

 

=以下、資料=

教皇庁 聖職者省
[司祭の役務と生活に関する指針]
カトリック中央協議会

p.41-42
政治活動と社会への参加

33 司祭は、どのような歴史的で一時的な出来事とも結びつきえない普遍性を持つ教会の奉仕者であるから、あらゆる政党を超えたところに身を置かなければならない。司祭は、政党あるいは組合の指導において活動的な立場を取ってはならない。ただし教会当局の判断によつて、教会の権利の擁護と共通善の促進がそれを要請する場合は、この限りではない(97)。事実、これらの役割はそれ自体よいものであるが、教会の交わりを破壊する重大な危険となりえるために、聖職者の身分とは無縁のものである(98)
イエスと同じように(ヨハネ6・15以下参照)、司祭は「すべての人にとって霊的な兄弟愛を持つ者としてとどまるために、とくに政治活動が党派的になるとき(ほとんど不可避的にそうなってしまうのであるが)、どんな形態の政治活動をも放棄しなければならない」(99)。同様に、おのおのの信者が、いかなる理由によっても排除されることなく、司祭に近づくことができなければならない。
司祭は、「政治的な構造や経済生活の組織に直接介入することは、教会の牧者のすることではない」ということを記憶すべきである。「この任務は、同朋市民とともに自らのイニシアティブで行動する信徒の召命に属している」(100)。ともあれ、司祭は「信徒の良心を正しく養成する努力」(101)を忘れてはならない。
司祭の使命を、単に社会的または政治的、あるいはとにかく司祭の身分に無縁な任務に還元することは、教会全体の福音的な豊かさをつかみ取れるというよりは、むしろその重大な損失である。

[原註]
(97) 教会法第287条第2項、教皇庁聖職者省「教令(1982年3月8日)」(Quidam Episcopi:AAS74[1982]642-645)参照。

(98) 教皇庁福音宣教省 『福音宣教省に依存する諸教会の教区司祭のための司牧案内』9、教皇庁聖職者省「教令」(AAS74[1982]642-645)参照。

(99) 教皇ヨハネ・パウロニ世「1993年7月28日の一般謁見における『カテケジス』」3(L’Osservatore Romano,29 Jul.1993)。第ニバチカン公会議『現代世界憲章』43(Gaudium et spes)、世界代表司教会議「役務的祭司職に関する資料」(II,I.26:AAS63[1971]912-913、教会法第285条第3項、第287条第1項参照。

(100) 『カトリック教会のカテキズム』2442。教会法第227条参照。

(101) 世界代表司教会議「役務的祭司職に関する資料」(II,I,2b:AAS 63[1971]913)。

 

[教会法]

第285条  (3) 聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる。

第287条  (1)聖職者は,正義に基づく平和と調和を人びとの間に保持すべく常に最大の努力をしなければならない。
(2)聖職者は、政党及び組合の指導に積極的に関与してはならない。ただし、教会の権限ある権威者の判断によって、教会の権利の擁護又は共通善の促進にとって必要である場合はこの限りでない。

 

[現代世界憲章]43(部分)

しばしば、信徒は自分のキリスト教的なものの考え方に従い、状況に応じて、ある特定の解決策を選ぶであろう。しかし他の信徒が、同じく真面目に考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すこともたびたびあり、それもまた当然なことである。ところで、多くの者が、提案されている解決策を当の提案者の意に反してさえ、福音の教えと結びつけがちである。しかし自分の主張だけが教会の権威によって支持されていると考えることはだれにも許されないことを思い起こすべきである。信徒はつねに相互愛を実践し、共通善を最優先させながら、誠実な対話によって互いを啓発しなければならない。
信徒は、教会の全生活において行動的な役割を果たすべきであり、したがって世の中にキリスト教精神を浸透させる義務を負うだけではなく、人間社会のただ中で、万事においてキリストの証人となるように召されている。

 

[カトリック教会のカテキズム]
2442 政治体制の構築や社会生活の組織づくりに直接に介入することは、教会の司牧者の任務ではありません。この任務は信徒の召命の分野であり、信徒は他の一般市民と力を合わせながら自らの発意でそれを果たさなければなりません。社会活動には具体的にはさまざまな形がありえますが、どんな形のものであっても、それはつねに共通善を目指し、福音と教会の教えに従って行われなければなりません。「キリスト教的関心に基づいてこの世の現実に活力を吹き込むのは、信徒の役割です。そしてそのことによって信徒は、平和と正義の証人となり、担い手となるのです」。

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