2014年10月3日
言論への暴力、言論の暴力(一)
「朝日新聞問題」

 

「慰安婦問題」を報じた元朝日新聞記者がそれぞれ非常勤講師、教授を務める勤務先、
北星学園大学(札幌市厚別区)へは5月29日と7月28日、
帝塚山学院大(大阪府大阪狭山市)へは今月9月13日、
元記者を辞めさせなければ学生に危害を加える、との脅迫があったそうです。
既に二人は、退職したと報ぜられています。

私に脅迫者を支持する気持ちは微塵もありません。
身を匿して他を脅すのは、私の唾棄することです。
まして目的が、この二人の「元記者」を含めた朝日新聞への批判であるなら、完全な「逆効果」と言えるでしょう。
逆効果である故に、私などはそれを狙った、そっちの側の工作ではないかと邪推したくなるのです。是非犯人を突き止めて欲しい。

“脅迫”文ではありませんが、朝日に対する強い批判(バッシング)は続いています。私はこれを必要なものと思います。しかし例えば、週刊文春10月9日号p.24-25に載っている半藤一利氏の、下のような意見があります。

“朝日バッシングに感じる「戦争前夜」”というものですが、末尾を転記します。

いまの過度な朝日バッシングについては違和感を覚えます。
週刊文春を筆頭に、読売、産経などあらゆるメディアが一つになって、ワッショイ、ワッショイと朝日批判を繰り広げている。
私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。これがいちばん大事です。昭和六年の満州事変から、日本の言論は一つになってしまい、政府の肩車に乗って、ワッショイ、ワッショイと戦争へと向かってしまった。
あの時の反省から、言論は多様であればあるほど良いと思うのです。私のような爺いが、集団的自衛権や秘密保護法に反対と堂々と声を出せることは、大変ありがたいこと。こういう声が封じられるようになったら終わりです。
今の朝日バッシングには、破局前夜のような空気を感じますね。好ましくないと思っています。

これは私が前回の“時事短評”で論じた、佐瀬昌盛氏の産經新聞9月17日付文章に似ているように思います。佐瀬氏はこのように記しています。

日本のプレスはやはり多彩でなければならない。われわれは全体主義国家に住もうとは思わない。複数主義的民主主義(プルーラリスティック・デモクラシー)にとり、多様性は断念不能である。ゴム印を押し続けているような全体主義的プレスは真っ平御免。新聞にはそれぞれの個性と独自色が不可欠である。どの新聞を読んでも論調が同じというのであってはなるまい。どこを切っても図柄は同じ「金太郎アメ」は願い下げだ。

私は、「言論が多彩」である為には、その「論」の拠る事実に、虚偽があってはならぬと思うのです。
誤認誤解は常時あり得るでしょう。
それ故に僅かな疑念が生じても、速やかに、誠実に検証し、誤りがあれば改めなければならない。
文春も新潮も、読売も産経も、そのことを言っているのであって、自分と異なる“論”(見解)故に、朝日を責めているのではありません。論以前の、根本の部分を批判しているのです。
彼らが真剣なのは、それが“業界全体の信用”に関わるからです。自分たちの死活問題なのです。
出た料理にイチャモン付けているのではありません。素材が偽物であった、その根本についての朝日の対応が不誠実であると言っているのです。

昭和前期のことは私には分かりませんが、戦前の報道の罪は、「言論が一つになった」以上に、言論が「嘘を流した」ということと思います。
大本営発表が嘘であることを、報道は知っていたはずです。大本営発表を虚偽と報ずる“自由=勇気”が無くとも、せめて「沈黙」は出来なかったのか。司馬遼太郎氏がそのことを語っていたと記憶します。(NHKブックス『「昭和」という国家』。手元に本が無いので、正確な引用は後ほどとします)

[2014.10.29追記]司馬遼太郎氏の言葉。

私の記憶違いで、司馬氏が語ったのは日露戦争についてでした。ただ主題は同じと思います。報道が真実を伝えないこと、虚偽を伝えること、虚偽と知りつつ伝えること、その罪悪です。それが國を誤らせ、國民を悲惨な場所へ導くのです。大本営発表の嘘を彼らが知らなかったはずはない。知らなかったとすれば、それは既に報道機関ではない。知っていて、大本営のラウドスピーカーとなり、煽り、國民を死地へ向かわせたのです。


このような文章もあります。

高橋源一郎氏 “「愛国」の「作法」について”  →

学校で「新聞」を作るプロジェクトに参加している小学生の息子が、おれの机の上に積まれていた新聞と雑誌を見つけ、
「これ、なに? 読んでいい?」
と訊(き)いてきた。おれは、少し考えて、
「止(や)めときな」といった。
「なんで?」
「下品で卑しいものが混じってるから。そのうち、きみはそういうものにたくさん出会うことになるだろうが、いまは、もっと気品があって美しいものを読んでいてもらいたいんだよ。パパとしては」
「わかった」。
そういって、息子は書斎を出ていった。おれは、なんだかちょっと悲しく、憂鬱(ゆううつ)だった。

朝日新聞は、二つの大きな「誤報」を作り出した。「誤報」に関しては、擁護のしようもない。その後の対応も、どうかしている。だから、批判は甘んじて受けるべきだ、とおれは考えていた。
机の上にあったのは、その「誤報」を批判するものだった。その中には、有益なものも、深く考えさせられるものもある。だが、ひどいものも多い。ひどすぎる。ほんとに。
罵詈雑言(ばりぞうごん)の嵐。そして、「反日」や「売国」といったことばが頻出する。そんなことばが使われること自体は珍しくない。「前の戦争」のときにおれたちのこの国で、1950年代のアメリカで、旧ソ連時代のロシアで、そして、ナチス支配下のドイツで、「愛国」の名の下に、それに反すると認定された者は、「売国奴」(ときに、「共産主義者」や「人民の敵」ということばも使われた)と呼ばれ、容赦なく叩(たた)きのめされ、社会的に(あるいは身体的に)抹殺された。
いまも世界中で、同じことは行われ続けている。いや、気がつけば、おれたちの国では、その「語法」が、「憎しみ」と軽侮に満ち、相手を一方的に叩きのめす「語法」が広がっている。

この方は「作家」だそうですが、朝日新聞の30数年に亘って垂れ流してきた誤報(捏造)記事を、“下品”とも“卑しい”とも思わないのでしょうか。綺麗な言葉で醜悪を表現できると知らないのでしょうか。朝日の記事が、私たち、日本人の過去から将来に向けて、どれほどの傷害を為したか。「反日」という言葉や、「売国」という言葉よりも、遥かに深く、人を抉る“「ごく普通の言葉」”があることを、作家が知らぬ訳はない。最も人を傷める言葉、実効ある罵詈雑言は、“子供に読ませても良い”、教科書にも採用されるような、朝日新聞が記事で使った類の言葉で語られるのです。本当のヘイトスピーチは、日常語で優しく語られるのです。

朝日新聞の慰安婦に関する報道は意図した誤報(即ち捏造)であり、言論による暴力であり、それ故に「犯罪」であると私は思います。言論の多様性とは関係ない。多様性以前の、言論そのものへの破壊行為です。

今回の問題の基本は言論の「自由・多様性」でなく、「言論の信憑性」なのです。

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