2014年11月23日
国旗と日本のカトリック

 

先週18日、銀杏の黄葉を見たくて、立川の昭和記念公園へ行きました。


広大な公園で、ゆっくり二時間半余りを歩き、昭和天皇記念館に入りました。そこで思いがけない発見をしました。


日本経済新聞2001年7月15日の工藤美代子氏連載記事の中に、下の画像がありました。


秋田にあるカトリックの礼拝堂(カトリック教会では「聖堂」といいます)で、昭和天皇が祭壇に向かい、軽く頭を下げています。拝礼とは言えませんが、十分な敬意を表していると思います。この画像から受ける印象は静謐です。写真の原典は「マッカーサー記念館」にあるようです。

私はこの画像がずっと気にかかっています。秋田のどこの聖堂なのか、そこへ行ってみたいと思い続けていました。

昭和天皇記念館の展示の中に、一葉の写真があり、次のように記されていました。
「昭和22年8月14日 秋田 聖心愛子会(養老院)」
修道女が後ろにいて、昭和天皇が老嬢を見舞っています。
戦後間もなく、天皇が二度も秋田を訪れたとは思えないので、日経に載った、聖堂内の昭和天皇は、同じ行程のものと考えられます。さすれば聖堂は、聖心愛子会の修道院・聖堂である可能性があります。

「聖心愛子会」の現状はどうなのか、私は先輩であり仲間であるOさんに訊ねました。Oさんから下のような返事がありました。許可を得て紹介します。

現在の名称は、聖心の布教姉妹会になりました。本部修道院は藤沢にあり、聖園女学院中学、高等学校があります。荒井勝三郎司教様は、本部修道院邸内にある洋館で老後を過ごされました。皇室との関係は分かりませんが、昔、急病で入院したシスターの代行として週2回、高1、高2クラスの英語の非常勤講師をしました。その時、忘れられなかったのは、講堂に、昭和天皇、皇后陛下のお写真が飾られていたことです。おそらく当時、ご存命だった修道会創立者のシスター(外国人)との関係だろうと推測します。(野村註:数十年前の話です、との追伸がありました)


数日前、20日の夜に、大阪で仲間と歓談しました。その時、私は上の話をしました。畏友・夙川教会所属の河野定男氏から次のようなことを教えられました。

1) 戦後、日本国旗の掲揚は禁じられた。
2) マッカーサー及びGHQメンバーの多くがキリスト教徒であった関係からか、天皇巡幸先にはキリスト教関連施設が多い。
3) カトリック施設においては、上記国旗掲揚禁止令にも拘らず日の丸を掲げ、天皇を迎えた。(この点は宗教ジャーナリスト・斎藤吉久氏の文章によるとのことでした)

Wikipediaによると、
「1945年、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗としては国際信号旗のE旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年(昭和24年)1月1日にマッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
とあります。

私の手元にある関連文献は、『昭和天皇の全国巡幸』(アーカイブス出版2008)、『昭和天皇全記録』(著者代表・山本七平、講談社1989)の二冊ですが、確かに昭和22年前後の写真に、日の丸は見えません。

日本のカトリック教会は、国旗掲揚に否定的ですが、いつからそのようになったのでしょうか。

少なくとも、教皇ヨハネ・パウロ二世訪日の時は、そうではありませんでした。昭和56年(1981年)2月23日、羽田空港では日の丸を振って、教皇をお迎えしました。2月25日に発せられた有名な「平和アピール」の場でも、背景には日章旗が翻っていました。(出典:カトリック広報委員会監修 『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』 主婦の友社 2081.04.02)



下は2月26日、長崎・松山競技場「教皇歓迎集会」です。
ミサ、洗礼式、堅信式が行われ、会衆50,000人、気温零下3度、
時折雪が舞いました。

この中に、私もいました。(出典:同上)



教皇を迎える浦上天主堂、聖堂入口には、左右に、バチカン市国国旗、日本国国旗が掲げられました。(出典:同上)



このように1980年頃は、国旗に対して、日本のカトリック中枢は常識的な考えを持っていました。

2001年2月20日、日本カトリック正義と平和協議会は、大塚喜直担当司教名で、『カトリック学校の日の丸・君が代・元号についてのお願い』という、“お願い”実質指令が出されました。
実際にはこの指令に従わなかった多くのカトリック校がありました。しかし教育者にも世代交代はあり、現状がどうなのか、私は知りません。この文書は新聞でも取り上げられ、多くの國民の知るところとなりました。それを知って受験生を持つ父母が、進学先の選択としてカトリック校をどう評価したか。
今はすでに引退しているあるカトリック校の先生から、直接聞いたことがあります。発言者の実名をあげられないので、内容の詳細は書けませんが、このような主張をする“カトリック”を、親はどう評価したか、ということです。端的に言えばその先生の勤務先学校では、受験者数は減り、従って難易度は下がったのです。

日本カトリック正義と平和協議会は、「日本カトリック司教協議会」の公式機関であり、その担当司教の発言は、日本のカトリック教会の公式発言になります。実際、国旗国歌元号(司教発言は国旗国歌と言っておりませんが)について、教会中枢は、今もその考えを変えていません。

(私が本文で、カトリックの前にくどく“日本の”という前置きをするのは、日本の司教団の主張が特異であると考えるからです。詳細は本サイト内の、カトリック関係拙文を、お読み下さい。)

国旗掲揚に関しては、日本のカトリック司教団の方針は、占領下の日本へ戻れということです。国旗忌避の根拠も、占領軍のそれに相似しています。

私は、日本の教会中枢がいつから左傾化(というよりも幼児化)したのか、調べているのですが、よく分かりません。印象としては、ある世代の司教たちが去った後、一斉に芽を吹いたように見えます。占領軍の忠実な教え子たちです。従って、ある層の司教たちが去るまで、変化はないのだろうと思います。



下は拙宅前に今日掲揚した国旗です。
本当に美しい旗です。

 

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本文発信者は「野村かつよし」です。

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