2014年11月27日
圓通寺

 

私は韓国へは20回以上、30回近く行っています。仕事がからんだのは二回ほどで、あとはすべて個人の観光旅行でした。一人で結構あっちこっち行きましたが、親切にされ、日本人故に不愉快な目に遭ったことは一度もありません。毎年一度は行きたいと思っていました。しかしこう日本人の悪口を言われると、その気が萎えました。今も私は韓国を嫌いでありません。しかし当分行くことはないと思います。

洛北、「圓通寺」へ行きたいと思ったのは、任文桓(イム・ムナン)氏著、『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(草思社)を読んでいたからです。
 


 

著者任文桓(イム ムナン)氏の略歴は、カバー裏に記されたものを転記すると、下の通りです。

任文桓 [イム・ムナン]
1907年、韓国忠清南道生まれ。23年、16歳のときに日本に渡る。同志社中学、旧制第六高等学校(岡山)から東京帝国大学法学部に進む。34年高文行政科試験に合格。35年東京帝大を卒業、拓務省に採用され、朝鮮総督府に出向。京畿道学務課、地方課を経て、38年高等官となり竜仁郡守、40年~42年総督府殖産局産金課、鉱山課勤務。44年同鉄道局書記官、鉱工局機械課兼務、45年江原道鉱工部長に発令されるも終戦。戦後は韓国臨時政府行政研究班員、李承晩政権下で商工部次官、保健部次官、農林部長官を歴任。長官辞任後は朝鮮商船社長、韓国貿易協会会長等をつとめる。93年死去。


又、このようにもあります。

1923年、関東大震災の年に16歳で日本に渡り、新聞配達員、人力車夫等々をしながら苦学の末、東京帝大法学部を卒業。高文試験に合格し朝鮮総督府に行政官として勤務、戦後は李承晩政権下で農林部長官(大臣)をつとめた一人の韓国人が、エリート官僚として日韓両政府に仕えた半生を振り返り、日本語で書いた回想記。戦前は日本の体制内で同胞の利益を守ることに腐心し、戦後は一転、“親日反逆者”のレッテルを貼られるも日本時代に習得した「清白、良心」の規範をまげることなく職務を果たす。そのアンビバレントな胸のうちが率直にして冷静、ほのかにユーモアを醸す巧みな筆致で語られるが、そこには自らの体験を加害・被害者史観で処理しようとする態度は一切ない。日本時代を生きた韓国人の体験を知るベストの本であり、“植民地世代”が残した最も優れた回想録と言えよう。


以下、本文はこの書物の、p.127-131を丸写しすることで費やしたいと思います。

任文桓氏は1907年生、1993年に亡くなっています。1923年関東大震災の年に日本へ渡りました。大正12年(1923年)8月26日、著者は友人・朴賛福と二人で東京を目指し、大田駅から出発します。「目的地の東京には一人の知人もいない」という状態です。下関から東京へ向かう途中、京都に同郷の者や親戚がいたので、東京の様子を教わって行こうと、途中下車します。そこで「関東大震災」が起こる訳です。

一冊の本をかいつまんで紹介することはとても出来ないので、是非本書をお読み頂きたいと思いますが、著者(バウトク=岩の徳、子供時代の愛称で著者は自分を表現しています)が同志社中学に入ったのは18歳の時のようです。圓通寺で「合宿」するのは五年の一学期とありますから、既に23歳前後であったと想定できます。高等学校を目指す四人の仲間が、圓通寺で合宿します。正に「青春」を感じさせる文章です。日本人と朝鮮人の若者が、このような青春を送り、その友情は、日本の敗戦、韓国の独立、そして朝鮮戦争を経て、変わることはなかったのです。
 

洛北円通寺に籠城する

  五年の一学期が過ぎ、夏休みが近づいた頃、笹田博嗣から素晴らしい提案がなされた。つまらない秘密競争をお互いにやめて、洛北の円通寺に集まり、夏休み中を籠城勉強することにより、各自の秘訣を公表して共同戦線を張ろうというのだ。バウトクはもちろん賛成した。川勝康男、山本米蔵の二人も誘われると、即刻賛成した。一学期の試験が終わるや、約束の四人は、まずは門出に浩然の気を養うべく、加藤保ら、ほかの三人を加えて、七人乗りのボート部端艇を借り出し、五日をかけて琵琶湖一周を漕ぎ回り、気勢を上げ、それが済むと直ちに円通寺に四人が集合して、勉強に取りかかった。

  さてこの円通寺であるが、当時と今日の変化振りは、バウトクの一生の変化に較べると、話にならないほど激しい。先年バウトクが川勝と一緒に、久し振りにここを訪れたとき、車が寺まで走る途中には、到るところ人家がひしめいていた。寺の中は絵のように奇麗に整えられ、当時若い寺僧だった人が偉風堂々たる住職の座に昇り、比叡山の景観を眺める100人にも余る観光客に、バウトクが聞いたこともない博識な説明をしている。住職の私室に案内されてみると、奥さんと子供さん達が挨拶する。

  四六年前、バウトクら一行四人の円通寺籠城には、まず次のような道をたどらなければならなかった。上賀茂の植物園前で電車を降り、自転車が通れるくらいの細道を歩いて、田畑の連なる広い平野を横切り、はるか向うに霞む京都盆地の北方山地に取り付く。ちょっとした峠を越すと、右手に気味の悪い池があった。このあたりには蝮や蛇がうろちょろしているので、夜は通らぬほうが安全である。池の中の蛙を食べるために集まるのだろう。それからもう一つ峠を越すと、低い山の合間に桑畑があり、その隣りが荒れ放題の円通寺であった。


先日、11月20日に夫婦で圓通寺を訪ねました。最寄のバス停が『深泥池(みどろがいけ)』で、名前からして、“蝮や蛇がうろちょろしている気味の悪い池”があったところではないでしょうか。おそらくは名前のみを残して埋め立てられ、今は住宅街になっているのです。

46年前、とありますから、著者が再訪したのは70歳少し前、1975~6年頃と推定できます。それからでも既に40年を経過しているのです。

深泥池バス停を下りて、20分ほど歩いた場所に、圓通寺はありました。途中、かなりの急坂があり、それでも家は立ち並んでいましたが、80年前は、鬱蒼としていたのでしょう。

 

  老年の住職と若い僧の二人暮しで、着くなり夕食が始まった。食堂の真ん中にいろりを切って、大きな釜の中では味噌汁が煮えくり返っていた。四つのお盆が白い布をかぶって、いろりの前に並んでいた。布を取ると箸二本、茶碗二個、小さな皿一つが行儀正しくお盆の上に乗っており、皿の中には黄色いたくあんがたった二切れあった。老僧の指図を受けながら、最初の晩餐が始まった。茶碗の一つには御飯を盛り、もう一つには釜の中から煮えくり返る味噌汁を汲んで食べるのだが、その前からすでに全身は汗だらけになっていた。たくあんは鼠が木をかじるように、前歯でちびらないと、食事が終わるまでの唯一のおかずが保たない。二切れ以上の配給は、金輪際許されない。食事が終わると、まず御飯を盛った茶碗に御茶を注ぎ、箸で中をきれいに掃除して、味噌汁用茶碗にこの掃除水を移す。たくあん皿も同じ作業により、その水も味噌汁用茶碗に移したあと、これをきれいに呑み干す。そしてこの三品の食器を元どおりお盆にのせて、白い布をかけ、壁にしつらえてある棚の上に載せて、すべての食事作業が完了する。次の食事の準備は棚から盆を下ろすだけだ。籠城の六〇余日間、日に三度の食事はいささかの変化も許されなかった。

  バウトクの仲間の誰かが夜中にまる裸になって近くの西瓜畑から盗って来た西瓜は、寺僧も寺の猫も喜んで食べるくせに、寺内で肉類と女人とを用いることは厳禁であった。鶏卵も、干しするめも、これ悉く生物の成れのはてであるから、これをも口に入れるのは仏法に反するというのだ。人間三欲のうち、食欲のみに執着する年頃である四人にとっては、仏法こそ残酷な戒律であった。

  円通寺の境内にある山の傾斜面は畑に切り開かれ、二人の坊さんが朝早くからここで働き、一応は自給自足の体制を布いてはいたが、実際は月二回の托鉢と墓地からの収入のほうが多いらしかった。命日に墓参りに来る子孫達は、必ず仏様を拝み、読経を頼んだうえ、相当のお金を喜捨して帰った。この喜捨のお陰で、バウトク一行は一度だけ、仏法を犯したことがある。二人の坊さんが托鉢のため京の町に出かけた日に、大阪から来たという墓参りの客が読経を請うた。坊さんの留守を理由に断われば、来客の失望は大きかろう。嘘も時と場合によっては方便になる。四人が協議した結果、バウトクが僧衣を身にまとい、仏前に正座して、木魚を叩きながら、朝鮮の古歌を例の音痴の節回しで、低くうなった。来客は大いに満足し、五〇銭銀貨二枚を仏前に供して帰った。ここで済めば、まことに仏法にかなった善行となり、どんなにか良かったことだろう。

  ところが、周囲にそそのかされた山本が、この金を持ち出し、近くの部落で鶏二羽と引き替えて来た。この獲物は桑畑の中の土の上で直ちにローストチキンとなり、久方振りに四人の胃腸の中へ動物油をさした。四人は寺に戻り、いろりの灰で口中をみがき、臭いを消した積りで、元気に満ちた姿で机に向かった。この頃流行の完全犯罪の積りだった。しかし夕方になって、桑畑よりも遠いあたりから、老住職の大音声が響き渡った。「肉を食った奴らは、寺から今のうちに出て行け」である。生涯肉を口にしなかったこの老人は、峠を越し寺が見えだした所で、すでにその嗅覚で完全犯罪を見破ったものらしい。いっさいを白状し、善行と悪行が入り混っている点を強調して、やっと許しを得た。

  今日の円通寺だけを知っている人に、そこで籠城勉強をしたと話したら、笑われるに決まっている。だが、四六年前の、限りなく閑静だったこのお寺で、一行四人の中学生は善行と悪行を重ねながらも、勉強だけは大量に進展させることができた。ほかの三人は、いよいよ家が恋いしくなると、たまには朝早く家へ帰って、夕方寺へ戻ることもあった。バウトクにしたところで、原家や藤原家へ行けば、すき焼きをたらふく食べさせてくれることぐらいは知っていたけれども、彼に限って、六〇日間もの長い間、京の町に現われることは一度もなかった。老住職はそんなことは知らないから、「おまえは、うちが遠いさかい、帰れんのやろう」と彼を慰めてくれた

  五年生の二学期には、バウトクの試験成績は平均九六点にまでせり上がった。校則によると三学期は休学しても、二学期分の六割の点数はただでくれることになっている。これで計算してみると、五年生の年間平均は八二点となり、各科目別に調べてみても、科目落第点である六〇点未満に落ちるのは一科目もない。そこでバウトクは、三学期中を高校入試準備のため休学する旨を学校に届け出て、背水の陣を布いた。入試勉強の時間を稼ぐためというよりは、むしろ彼の決意を膨脹させるための処置だったと言えよう。バウトクの休学によって、久永は長い間の願望を達し、卒業成績一番で同志社大学予科に進んだ。

  ところで、どの高校に願書を出すかということは、たいへんに難しい問題であった。四年生の終りに、三高を受けて落ちた当座は、言うまでもなく「来春また」と心に決めていたのだが、その来春が近づくにつれて、彼の心はぐらつきだした。これはおかしいと、自分の心をたしなめてみても、何の足しにもならなかった。万一にも今度また落ちたら、年齢も年齢だが、世の信用を失い、食べてゆくだけでもたいへんな苦労をせずばなるまい。開かれている同志社大学への道を拒否し、同志社学院の授業に不信を示す結果となった異例の休学までしたのに、高校を落ちたあと同志社大学予科に舞い戻るようでは、男が立たない。長い間迷い続けたあと、ここは一歩退いて、安全第一主義を取るに限ると決心がついた。そこで、三高に次ぐ名門と言われる岡山の六高と名古屋の八高が、彼の頭の中を去来していた。ちょうどそこへ笹田がやって来て、どこを受けるにしても、二人で一緒に行こうと言いだした。バウトクはもちろん喜んでこの提言を受け入れ、六高と八高のうち、択一を提案した。ところが名古屋は、笹田の郷里である。落ちる場合を考えると、郷里は避けたいのが人情であろう。こうして二人は、六高を志願することに一決した。


長い引用をしました。素晴らしい青春であったと思います。韓雲史(ハン・ウンサ)先生は、「いい日本人もいた。悪い日本人もいた。いい朝鮮人もいた。悪い朝鮮人もいた。そういうことだ」と、『玄界灘は知っている』の中で語っています。日本で大成功した多くの朝鮮・韓国人がいます。2007年6月24日の朝鮮日報電子版には、大富豪・韓昌祐マルハン会長へのインタビューがあって、そのタイトルは、『62年前に日本に密航、億万長者になった男』とあります。「徴用で日本へ行き、終戦後も日本にとどまっていた一番上の兄の勧めで、1945年10月21日の夜、密航船で日本へ向かったのです」と語っています。日本の敗戦にも拘らず兄上は日本に留まり、なおかつ弟を密航させてまで日本へ呼び寄せたのです。日本人が悪逆無道の民族なら、そのようなことがあるでしょうか。

11月20日、借景の比叡山が美しく見えました。
同じ景色は二度と無い、と説明されました。季節は勿論、天候によって、あるいは一日の時刻によって、景色は変化する。それが「借景」です、と言われました。比叡が、必ず見えるとは限らないそうです。



 

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