2013年6月28日
「強制連行」について

日本維新の会の橋下徹共同代表の発言に端を発し大騒ぎとなった、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関連して、下のようなことを書いておきたいと思います。

一つはJR東海(東海道新幹線)車内で、2008年8月に読んだ記事で、今も続いている『ひととき』という車内誌です。「蒼茫の海、孤高の灯台」という記事でした。


「灯台守追想」として、田中好幸、良子ご夫妻のお話が載っています。一部を抜粋引用します。

次の赴任地、沖ノ島灯台(福岡県)には六年近く勤務し、この時代に一人娘を授かった。夫妻は事務所と官舎のあった筑前大島で暮らし、芳幸さんはここと周囲約四キロの絶海の孤島、沖ノ島を巡視船で往復して交替で灯台に勤務した。灯台は海抜二四三メートルの断崖絶壁の上。勤務する際には、食料を背負って山道を上る。常時三人の勤務のため、二人ずつ交代するが、「残り番」といって、二回に一度は二十日間の勤務となった。海が時化るなどして船が遅れれば、交替も遅れる。芳幸さんは、三十八日間連続勤務したこともあったそうだ。
「味噌、醤油はあっても、米や野菜は底をついてきますJそうすると、当時、道にゴロゴロ転がってたオオミズナギドリの卵をとってきて卵焼きにして食べるんですわ。よく覚えとらんけど、美味くはなかったと思うなあ」
そんな長期間勤務を経て家族の元に戻ると、幼い娘が、久しぶりに見る父の顔を忘れていることもあったとか。
隣国に近いこの島では、昭和三十八年六月、韓国からの密航者漂着の対応もした。八歳の少年から八十一歳の女性までその数、実に三十四人。密航船は彼らを置いてすでに去った後だったという。

昭和38年(1964年)当時、老人から子供までを含めた、韓国から日本への、「集団密航」が行われていたのす。1964年といいますと、東京オリンピックが開催された年で、そうした日本に憧れたのかも知れません。しかし81歳の女性まで加わっていたとすれば、この女性は日本人の“酷さ”を存分に知っている年代ですから、みんなを止めることなく、自分も同行したことが、不思議です。


さて、今日の産経新聞(東京版)27ページに、

「マルハン松竹六区タワー」来年末開業

という記事が出ています。「マルハン」グループの総帥、韓昌祐氏は「フオーブス」にも載った億万長者です。この人も「密航者」です。他ならぬご本人が、それも「朝鮮日報」紙上で語っています。

14歳の時、『コンサイス英和辞典』1つで日本へ密航
記事入力 : 2007/06/24 11:38:18
マルハン・韓昌祐会長インタビュー(2/6)

より、部分引用します。

「・・・・徴用で日本へ行き、終戦後も日本にとどまっていた一番上の兄の勧めで、1945年10月21日の夜、密航船で日本へ向かったのです」

当時14歳だった韓会長は、『コンサイス英和辞典』とコメ2升だけを持って密航船に乗り込んだ。3時間で日本に着くと聞いていた密航船は、丸1日かかってようやく下関に着いた。

「韓国では貧しくて勉強ができなかったので、日本では一生懸命勉強して成功してみせる」という思いで、彼が抱えていた『コンサイス英和辞典』は、韓会長の「一番の宝物」として大事にしまってあるという。


1945年10月と言えば、日本の敗戦直後です。
「徴用で日本へ行き、終戦後も日本にとどまっていた一番上の兄」というのが、こっちへ来い、と呼んだ訳です。自分が帰国しないのみならず、母国にいる弟を呼んだのです。日本がそんなに酷い国であったなら、そんな風にしますかね。


更に衆議院の会議録に、「22-衆-法務委員会-23号 昭和30年06月18日」というのがあります。

○小泉政府委員 (前略)神近先生がおっしゃいましたように、日本に住まいたい者を住まわせて、韓国に帰りたい者は返す、こういうふうに参りますと事は最も簡単で、いろいろの難問題が漸次解決をするのでありますが、問題はそう簡単でなく、極端かもしれませんけれども、六十万と推計をせられる朝鮮人のうち、日本から母国に帰りたいという者は一人もいないといっても大した言い過ぎではない。一方向うからは、入れれば、それこそ手段方法を選ばず、命がけでも密航をして、方法さえつけば怒濤のごとくどんどん入ってくる。そしてこちらから強制送還をしようといたしましても、韓国の政府がこれを容易に受け付けないというところに、人道問題だけでは解決しない大きな国と国との外交問題と申しますか、もう入国管理局だけでは手に負えない大きな外交問題となってここに横たわっておるのは、私が申し上げるまでもなく、御理解をいただいておると思うのであります。(後略)

○小泉政府委員 先ほど韓国人でこちらにおる者で韓国の方へ帰りたいという者は一人もないと申しましたのは、一人もないといっていいくらいにほとんどない、こういう意味を申し上げたのでありまして、確実に全然一人もないということでなくて、一人もないといっていいくらいにほとんどが向うに帰りたがらないのだということを申し上げたわけでございますから、この点は特に念のために申し添えておきます。
 

日本がそんなに“酷い”国であったのなら、戦後、朝鮮人・韓国人は、どうして故国へ、とっとと帰らなかったんですかね。のみならず何故、命を掛けて、密航までして来たんですかね。 


6月24日の産経新聞に、阿比留瑠比氏が、つかこうへい氏の「歴史は優しい穏やかな目で」という言葉を紹介していました。

これはいい本でしたが、不思議に品切れなんですね。私は定価の三倍余りの価格で入手しました。つかさんには1990年版の『娘に語る祖国』もあります。共に良い本でした。つかさんの本を読んだのは初めてです。つかさんの、とくに芝居を観たことがないのが、悔やまれます。

この、つかこうへい氏の1990年版『娘に語る祖国』、並びに『娘に語る祖国-「満州駅伝」従軍慰安婦編』のようなものは、韓国語に訳して、韓国の人に、冷静に読んで貰いたいですね。

私は韓国が好きでしたし、何度も行って、不愉快を感じたことは一度もありません。しかし政治家やマスコミを見ると、しばらく訪韓の気分になりません。千年でも恨みは忘れない、なんて言われると、背筋が寒くなります。

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