2013年7月14日
中学時代の「同窓会」

日前の日曜日、7月7日に、中学校の同窓会がありました。
今は統合で無くなった阿南市立「富岡中学校」昭和32年卒業生です。
三年毎の七夕に行われます。曜日に関係なく七月七日と決まっています。

私は前回出席できなかったので、六年ぶりになります。
故人になっている者も、何人かいます。70を過ぎた訳ですから、仕方ないですね。

最初は五年毎でした。
いずれ隔年になるのではないかと思います。そうしないと「間に合わない」者が増える。私自身がそうかも知れません。
三年毎として、あと何回集まれるか、世話役の一人がそんなことをいいました。

卒業生は北海道富良野から長崎まで拡散していますね。
学年は五組ありましたから、およそ220~30人でしょうか。
今回はほぼ50人集まりましたから、集合率は良いと思います。

実を言うと私はこの学校の「卒業生」でなく、最終学年は大阪でした。
大阪市立西中学校というのが私の“卒業した”中学校です。

もう20年も前ですが、墓参りに帰郷したとき、級友に会いました。
「野村、お前同窓会に一度も顔見せんなあ。不義理じゃのう」
「わし、富中の卒業生ちゃうぜ。案内ももろたことないよ。名簿に入っとらんじゃろ」
「なに、そりゃあかん。わしが言うとくけん、次から出てこい。A組に入れとくわ」
というようなことで、三年A組の卒業生に編入された訳です。

富岡中学は富岡小学校(現存)と隣接しており、広いグランドも共用していました。
実質、小中一貫の学校でした。
9年のうち8年一緒でしたから、一年いなかったことなど、誰も覚えていないし、知ったからといって気にもしないのです。

私たちの小中学は、何かの催しの際には必ず国旗掲揚をしました。当然君が代も歌いました。
卒業式は「蛍の光」と「仰げば尊し」は当然でした。
運動会(体育祭)では、「軍艦マーチ」「君が代行進曲」が、定番で流れましたね。
楠木正成と二宮金次郎の像があって、今は正成像はありませんが、現存する小学校正門入ったすぐに、金次郎像はあります。

富岡中学が統合され、新設された「阿南中学」のサイトを見ますと、
  46.3.6 国旗掲揚台完成する。同落成式を挙行する。
とあります。良い教育が行われているのでしょう。
同じく、
  53.4.1 五代校長 森岡博美氏就任する。
とあります。

この方が正に「恩師」です。

今回は森岡博美先生と中妻和善先生がご出席下さいました。中妻先生は英語の先生で、確か、先生になられて最初の赴任だったと思います。
情熱的な教え方を、今もありありと覚えています。
ただ私の方が体質的に英語を苦手とし、先生の印象に残る生徒ではなかったと思います。私のクラスの担任でなかったこともあります。

今日は、森岡博美先生のことを書きます。
大正12年生、90歳。
私の戦死した長兄が同じ「博美」で、生まれもおそらく同年と思います。
森岡先生に接するたびに、私は「兄さん」のことを思いました。

森岡先生の、乾杯前の「ひとこと挨拶」が、“授業”になりました。



驚嘆はその言葉の明瞭さ、そして筋道の分かりやすさ、でした。
私は長いと全く感じず、ありがたく拝聴しました。
健康である為の心得(先生の母上は106歳まで存命なさったそうです)、そしてご自分の『初恋』について話されました。
長くなるからと文書で配られましたが、に転記、アップします。(先生のご了解は得ていませんが、お叱りにはならないでしょう)

この中に出てくる「飯盛神社」を、来年の梅の季節、訪ねてみようと思います。太宰府へ行くことになっているので、足を伸ばします。

そして、自分はこんな素晴らしい先生に教えていただいたのだと、改めて感謝いたしました。

私は、森岡先生に、特別に愛された、と思っていました。
後になって、そう思っている級友が、いっぱいいると知りました。


『納豆の研究』
というのをやりました。
県内の中学生の研究発表会がありました。
納豆は、関東では当たり前ですが、関西では一般的なものでありませんでした。
発表者は私ですが、実質は森岡先生の企画・監督、実技の大半、でした。装置の製作からやりました。

板と角材で保温箱を作りました。
保温材のような気の利いたものは無いので、おそらく、毛布を被せたと思います。
熱源は電球でした。加湿のための湿った布を敷きつめ、適当に水分を補給したと思います。正確な記憶はありません。

大豆については、森岡先生は農家ですから、自分ちの畦道で育った、今から考えればおそらく、この上ない豆を使いました。
納豆菌の素である稲藁も同じです。
大豆をふかして、稲藁を上下にします。
そして、温度と湿度を保ちます。
研究というのは、その「温度と湿度」の記録です。

一昼夜だったか二昼夜だったか、先生と私は一時間毎に温湿度を記録しました。
つまり交代して二時間毎に起きたことになります。学校に泊まり込んだのです。

半端な睡眠というのは、中学生にとっては相当にきついことでしたが、心は躍っていました。
途中、起きない私を度々先生が起こして下さいました。つまり先生はほとんで寝ていなかったことになります。

そういう教師がいました。
まったく疑念なく許す親がいました。
そんなことは、問題どころか話題にもならない、学校がありました。

稲藁によって、大豆が糸を引き、「納豆」なりました。
研究発表は私は「次席」になりました。
その発表会は、当日どうしても先生は出席できず、「わしが出ていれば一番取れたかも知れんなあ」と先生は笑いました。先生方の採点ですからね。

森岡先生に、「あの経験は、私の人生において、とても大切なものでした」と申し上げました。
先生はよく覚えておられて、(私の父のことまで覚えていて下さいます)、「そうか。あれは楽しかったなあ」とおっしゃいました。

私は実は今、「納豆製造装置」を入手しています。
原理は60年前の私の装置と変わりませんが、今はオートマチックに、温度・湿度を、コントロールできます。

納豆は、毎日のように食べますが、実は、納豆を食べた気がしません。
臭い(香り)が、消えました。
これは日本の“いわゆるチーズ”にも言えますし、キュウリ・茄子・トマトをはじめとする野菜にも言えることです。
無臭になるとともに無味になったのです。

私は昔の、クサイ納豆を食べたい。
自分で作るしかありません。藁で。

森岡先生は「酵母」関連の活動で、明日は福島、明後日は岩手、埼玉を回って帰る、とのことでした。
いやあ、本当に元気が出ました。

(参考資料:映画「氷雪の門」

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