2015年1月12日       1月15日追記
言論への暴力、言論の暴力(六)
植村隆元朝日新聞記者、文芸春秋と西岡力教授を提訴

 

私は8日、大阪で上記のニュース、植村隆元朝日新聞記者による文藝春秋社並びに西岡力提訴を知りました。驚きました。

『文藝春秋』一月号に植村隆氏の、
『慰安婦問題「捏造記者」と呼ばれて “売国報道に反論する”』
という「手記」が発表されました。そこで植村氏は、
「私の慰安婦報道をめぐる一部メディアの非難は『文藝春秋』1992年4月号から始まった。それは、いつの間にか「捏造」とまでエスカレートした。だからこそ、反証のための手記をまず『文藝春秋』に寄せるべきだと考えた。」(p.482)
と記しています。私は当然、片方の当事者である西岡力氏と植村隆氏が、文藝春秋誌を舞台に、論争を展開すると思っていました。しかしそうはなりませんでした。

これは西岡氏も当然そう思っていたようで、『正論』誌二月号『許せない 植村隆氏の弁明手記』で次のように書いています。
「ここでまず、書いておきたいことがある。『文藝春秋』編集部は今回、私に全く連絡をしてこなかったという事実だ。月刊『文藝春秋』編集部は22年経って、様々な言論を戦わせることがよいことだという立場から、西岡論文に反対の立場の言論も載せたのか。もしそうであるなら、少なくとも『文藝春秋』誌上で西岡に同じ号か次号で反論を書かせようと努力するのが当然ではないか。」
(p.66)

このことは私が前回の拙文で触れた疑問、植村氏の本文の前に文藝春秋が、「我々はなぜこの手記を掲載したのか」という編集部の説明を置いた理由、が推定できます。この説明文そのものが植村手記への本質的な否定になっています。この時点で文藝春秋側は、近い将来、植村氏と原告被告の関係になることを感じていたのではないかと思います。西岡氏へは意識して連絡しなかったのでしょう。「誌上」が議論の場になることを文藝春秋も望んだでしょうが、植村手記原稿を読んだ段階で、その希望を棄てたと思います。『文藝春秋』二月号には、見事に関連記事がありません。

『世界』二月号に、植村隆氏は、「私は闘う 不当なバッシングには屈しない」という、いわば「宣言文」を載せています。主旨は『文藝春秋』一月号の手記に同じと思いますが、受けた“バッシング”がより詳細に記され、今回の提訴に至る道筋も説明されています。

私は植村氏が受けた就職妨害、家族への嫌がらせ、学校への脅迫文等を、卑劣な行為と思います。正々堂々と名乗りを上げることなくこんなことをやるやつは、屑人間と思います。このような者の現れることをきわめて残念に思います。

しかし、1992年の西岡力論文、そしてそれ以降の西岡氏の一連の発言は、誠実なものであったと私は思います。植村氏はそれを22年間、無視してきました。

『世界』二月号で、植村氏は書いています。
“私は記事の本文で、「だまされて慰安婦にされた」とはっきり書いた。強制連行とは書いていない。私は暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた。”(p.60)
同じことは『文藝春秋』一月号でも語っています。私は重要発言であると思っています。
そして、
“「重大な事実誤認を犯している」と22年前に非難していた西岡氏は、今回(2014.2.6号)の週刊文春では「捏造記事と言って過言ではありません」と更に表現をエスカレートさせていた。”
と記しています。

拙文前回でも書きましたが、「強制連行ではない」と認識していた植村氏は、何故22年間、反論も説明もせず沈黙したのか。22年間は、「事実誤認」を「捏造」に熟成させるに足る、十分な時間です。沈黙によって行う「バッシング」があるのです。「私は闘う 不当なバッシングには屈しない」は、私たちもそう思っています。

思わぬ展開で、言論でなく法廷闘争になりました。ひょっとすればこれは、日本にとって良い結果をもたらすかも知れない。そんな予感を持ちます。


2014.01.15追記

今朝の朝刊で『週刊文春』の広告を見ますと、植村隆元朝日新聞記者に関する記事は無さそうです。月刊『文藝春秋』二月号におけるそれと同じく、争いが法廷に持ち込まれた以上、法廷の場に限定して対応しようということだと推定します。もし私の推定が正しいなら、フェアな態度と思います。西岡力氏も今日の産経新聞「正論」欄で、「次になすべきは外務省の反論だ」と書いていますが、その中に植村隆氏の名はありません。これも正しい態度であると思います。『週刊新潮』の広告文では、植村氏側に“170人の巨大弁護団”という文言があります。これが事実とすれば私は色々と想像してしまいますが、実体はすべて自らが顕すでしょう。

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