2015年8月12日 (追記 8月15日)
1955年4月バンドン会議(三)


昨日、8月11日、九州電力・川内原子力発電所一号機が再稼働され、同日午後11時、『臨界』に達した、と報ぜられました。私には朗報で、関係者のご努力に深く感謝するものです。

それにしても面白い動画報道が[テレビ朝日]サイトでありました。

(桜井譲士アナウンサー報告)
  原発前の抗議行動は11日で5日目を迎えました。強い日差しが照り付けるなか、主催者によりますと、全国から150人が詰め掛けたということです。

“150人”を、「詰めかけた」というんですかね?
動画を見ても緊迫感はまるで無いですが。
先日、安保法制が衆議院平和安全特別委員会で採決された7月15日か、翌日衆議院本会議で可決され参議院へ回された16日か、NHKテレビは、
「国会前で、(主催者側発表によると)2,000人の抗議デモがあった」
と伝えていました。
これは確認のしようがないですが仲間の何名かも聞いていますので、間違いないと思います。
聞いて、私は笑ってしまいました。
警視庁発表の参加人員は伝えませんでしたね。警視庁だと数百人かな。
「群衆画像」が出てきません。出しようがないのでしょう。なぜテレビのくせに画像で報じないのですか。画像を、ヘリコプターから「鳥瞰画像」で報じるべきです。


先週末金曜日、私の最寄駅・JR浜松町、駅前で、「戦争法案反対」のチラシを配るオジさんオバさんがいました。(何故か若い人はいなかった)
しばらく眺めていましたが、チラシを受け取る人は、ほとんどいませんでした。盛り上がっていません。歩行者は可哀想なほど素通りでした。同行者が後ろから私のシャツを引っ張るのを無視して、
「私は安保法制に賛成です」
「戦争になります」
「戦争になりますか」
「なります」
というような会話をしました。オバさんは憐憫の目で私を見ました。私も同じ目をしていたでしょうが。
“反原発”もそうでしょう。
「反原発」で選挙に勝った政党がありましたか?

日本人はカシコイのだと、私は思います。


さて、
安倍総理が14日にも発表すると語っている『戦後70年首相談話』に関して、有識者会議「21世紀構想懇談会」による
[20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会報告書 ](以下、報告書と記します)
が8月6日、提出されました。

立派な報告と思います。首相官邸のHPに、原文と同時に英文も掲載されているのですから、これ自体が既に世界に向けた現在日本の「歴史認識」表明でしょう。私はこの報告書内容に納得します。反省は勿論、静かな表現ですが実質強い“戦勝国”への反論もあります。

安倍首相の『戦後70年談話』について、『侵略』『謝罪』がキーワードで、それを入れるか入れないかが大問題のようです。
私は入れることに異存ありません。
朝鮮は全く別なカテゴリーと思いますが、満州事変以後の対中国戦争は、「侵略」であったと思います。コタバル、真珠湾以降の“東南アジア・南洋”進出も、「侵略」でしょう。簡単なことで、他人の家に、招かれもしないのに無断で足を踏み入れることは、「侵略」であると私は思います。(朝鮮に対してはそうではありませんでした。それは「親日派」という言葉が韓国に残っていることで証明されます)。
ただ“東南アジア・南洋”においては、既に「侵略者の先輩」が居ました。そこに居たのは先行した盗っ人でした。日本はそれを横取りに行ったのです。従って日本の標的は現地人でなく、侵略者たちでした。この辺りも『報告書』にはきちんと書かれています。


本ページの目的は、1955年4月の[バンドン会議]について書くことですが、関連ありますので、お読み下さい。

世界史上、多くの時代で世界最大の国であり、1830年ころにも世界最大の経済大国だった中国が、英国に、しかもアヘン戦争という極めて非道な戦争に敗北してしまったということは、この技術格差の拡大を示す世界史的な大事件だった。(「報告書」p.2)

ここで中国(清)が、十分な防衛力をもってイギリスを追っ払っていて呉れたら、その後のアジアはもっともっと平安であったかも知れない。尤も清(中国)自体が帝国主義をやったでしょうが。

同じページで「報告書」は次のように記しています。

しかし20世紀初めには、その植民地化にブレーキがかかることになった。
1905年、日露戦争で日本が勝利したことは、ロシアの膨張を阻止したのみならず、多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた。のちに1960年前後に独立を果たしたアジア、アフリカのリーダーの中には、父祖から日露戦争について聞き、感激した人が多かった。(p.2)



1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。
なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。(「報告書」p.4)

英国、フランス、オランダなどの東南アジアにおける植民地も、日本の進出によって大きな打撃を受けた。戦後、英国、フランス、オランダは植民地支配の回復を目指したが、これを実現することはできなかった。日本はアジアの解放を意図したか否かにかかわらず、結果的に、アジアの植民地の独立を推進したのである。そして、新しく生まれた独立国に対し、日本は戦後、賠償さらに経済援助を通じて、その自立に協力していった。(「報告書」p.31)

そして、

日本も参加した1955年のアジア・アフリカ会議では、植民地主義が糾弾され、基本的人権の尊重を求めるコミュニケが採択された。(p.5)



日本が何故「1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)」に招かれたのか、強い興味があります。この会議で、日本は主要な役割を担えませんでしたが、しかしおそらく、招かれた、出席した、ということが、その後の日本にとって、大きなプラス要因になったと思います。

日本が1955年の反植民地主義を宣言するバンドン会議に招かれた理由は、日本が世界史上初めて、白人に真っ正面から対峙した有色人種であり、一時的にせよ白人をやっつけた、それが出来ることを世界の有色人種に見せた、ということでしょう。これはおそらく、白人国家は認めないでしょうが、世界史における日本の、大きな貢献であったと思います。




[8月15日 追記]

安倍首相が昨日、『戦後70年談話』を発表しました。私は高く評価するものです。
「21世紀構想懇談会」による『報告書』を併せて、近代史の教材に使えるものと思います。


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