2014年4月11日
恩師と「教育勅語」

 

数日前、6日の日曜日に、古里徳島で父母の50年忌法要がありました。年は多少四捨五入しています。父母からすれば曾々孫にあたる者まで集まり、楽しい集いとなりました。

翌日の7日にお目にかかれないか、予め森岡博美先生には連絡したのですが、ご近所の皆様と花見の約束があるということでした。私も親戚が集まるのでどのような進展になるか分からず、今回は無理かなということになりました。

ところが7日夕刻先生より電話があって、私の空港行バス発車時刻まで一時間余り、猶予がありそうでした。徳島駅に隣接するホテルの喫茶室で待ち合わせ、私は妻子を紹介しました。妻は、電話では何度も話してますが、91歳と思えぬ、その背筋の伸びたお姿に、驚いていました。

私は、二月に佐世保へ行ったことを話しました。(手紙では行くとお伝えしてありました)。先生は海軍・佐世保に所属していました。そのようなことから、終戦前後の佐世保軍港の話をして下さいました。海に投げ出された兵を拾いながら、後ろ向き(逆スクリュー)でよたよた港に辿り着いた船(艦名をおっしゃいました)の話もありました。

戦後教職に復帰されました。「国史、倫理、宗教。倫理とは教育勅語のことだ、それらの教育が禁止された」

「昭和23年6月19日」
と、先生は日付を正確に語られました。「教育勅語が衆議院で全否定された」

そして先生は教育勅語を唱され、「このような当たり前のことを否定されて、自分はどう教師としてやっていけば良いのかと考えた」とおっしゃいました。

帰って、「国会会議録」を調べてみると、間違いなく昭和23年6月19日、下の議事録がありました。
参議院「教育勅語等の失効確認に関する決議-S23.06.19」
衆議院「教育勅語等排除に関する決議-S23.06.19」


「教育勅語」といえば、台湾・高雄の老友、陳天福氏から頂いたものがこれです。
「野村さん、教育勅語を覚えているか」と言い、私が首を振ると、「これをあげる」と下さいました。「私はちゃんと覚えているよ」と。

陳さんも確か大正12年で、奇しくも、森岡先生、陳さん、戦死した兄博美、みんな大正12年です。

今日(4/11)の産経新聞「産経抄」は、次のように語っています。

(抜粋)
▼それほどではないにしろ、昨年の『八重の桜』にも、違和感を覚える場面があった。新島襄亡き後、同志社の臨時総長となった山本覚馬が、明治23(1890)年に発布された教育勅語についてこんなつぶやきをもらす ▼「教育勅語か。教育の名の下に、人を縛るようなことがあってはなんねぇ」。いかにも、戦後の進歩派文化人が口にしそうなセリフである。「ならぬことはならぬものです」。覚馬が学んだ会津藩の藩校には、この言葉で結ばれる厳しい掟(おきて)があったはずだ ▼勅語が昭和23年に国会決議によって排除されて以来、徳育の欠如した戦後教育が、子供たちの心をむしばみ続けてきた。覚馬が知ったら、嘆きの深さはいかほどか。といった観点から、NHKは歴史を見ないものらしい。確かに教育勅語は、「軍国主義教育の象徴」の烙印(らくいん)を押され、内容の吟味もされないまま遠ざけられてきた ▼その原本の所在が、半世紀ぶりに確認されたという。歴史的な資料として、修復のうえ公開される見通しだ。全文が多くの人の目に触れる絶好の機会である。下村博文文科相の言うとおり、「至極まっとうなことが書かれている」ことに、驚きの声が上がるかもしれない

[固定アドレス]
[Home]

本文発信者は「野村かつよし」です。ご意見はこちらへ→