2014年6月22日
教皇フランシスコの訪日問題(四)
カトリックの教えは、「非武装」でも「無抵抗」でもない

 

2014年6月7日付 「岡田大司教“コメント”に、次の文章があります。

ご承知のように、ノーベル平和賞候補に憲法9条を保持する日本国民がノミネートされております。フランシスコ教皇には、そのような素晴らしい憲法を持ち、戦争放棄をこれからも世界に発信し続ける日本国民を力づけ、励ましていただきたい、とわたしたちは願っています。

我が国憲法、なかんずく九条は、色々な解釈が可能ですが、司教様方の認識は、完全な「非武装」、「無防衛=無抵抗」なのだろうと思います。しかしそうであれば、それはカトリックの教えに合致しないことです。のみならず、日本国憲法の定めにも合いません。

私はかつて、2008年9月13日に、松浦悟郎補佐司教と議論しました
「イエス様は無抵抗にすべてを受け入れ、十字架にかかられた」と司教は話されました。

「司教様のおっしゃる非武装・無抵抗と言うことは、もし他国から攻められたら日本国民に、無抵抗に、死を、もしくは隷従を受け入れよ、ということですか?」
「そうです。それがなければ何のための信仰ですか。ガンジーも、キング牧師も、無抵抗でした」

政治家がそれを選択すれば、正に「憲法違反」である、ということを、理解することが出来るでしょうか。

第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

この条文も分かり難いものですが、日本人の「基本的人権の享有」は誰が守るのか? 「奴隷的拘束」の排除は、誰が担っているのか? 私は「日本国政府」であると思うけれど、ある人々は逆で、日本国政府こそ日本国民の加害者になり得る、と認識しているらしい。危ないのは自国の政府で、外敵という認識は無い。『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』、というのは“前提条件”で、その前提は既に崩れていると思うけれど、彼らにとっては疑う余地無く、厳然と実在するらしい。従って“諸国民”の立場で我が国政府を攻撃する。(不思議にアメリカは“諸国民”に入っていないようです)。その形を把握すれば、彼らの考えがよく分かります。

[カトリック教会のカテキズム]は次のように教えています。

2265 正当防衛は単に権利であるばかりではなく、他人の生命に責任を持つ者にとっては重大な義務となります。共通善を防衛するには、不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。合法的な権威を持つ者には、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります。

2310 このような場合、政治をつかさどる者には祖国防衛に必要な任務を国民に課す権利と義務とがあります。
職業軍人として祖国の防衛に従事する人々は、国民の安全と自由とを守るための奉仕者です。自分の任務を正しく果たすとき、共通善ならびに平和の維持に真に貢献するのです。

「共通善」という言葉をどう理解すれば良いかですが、私の考えでは、「基本的人権」「隷従の排除」と言われているものと思います。それを守るのは、誰でしょうか。カトリック教会のカテキズムでは、「他人の生命に責任を持つ者」「合法的な権威を持つ者」「政治をつかさどる者」と記しています。普通に読めば自国政府でしょう。
 

そして、「教会の社会教説綱要」には次のように示されています。

508 教会の社会教説は『バランスのとれた、管理された全般的な軍縮』という目標を掲げています。兵器の莫大な増加は、安定と平和に対する深刻な脅威です。充足の原則、すなわち、各国家は正当防衛のために必要な手段のみを保有するという原則は、兵器を購入する国家と、兵器を生産し提供する国家の両方に適用されなければなりません。兵器は国際、または国内市場で交換される他の商品のように扱われてはなりません。さらに、教会はその教導権において、抑止という現象の道徳的批評を行っています。「多くの人々は、兵器の蓄積を仮想敵国からの攻撃を抑止するための逆説的な手段、しかも国家間の平和を保証しうるもっとも効果的な手段と見なしています。しかし、この抑止方法に対しては大いに倫理的疑問の余地が残されています。軍事拡張競争は平和を保証するものではありません。戦争の原因を除去するどころか、かえって増大させる危険を孕んでいます」。冷戦時に典型的な核抑止政策は、対話と多国間交渉を基礎とする具体的な軍縮措置に取って代わられなければなりません。

カトリック教会は軍備を良いものとしている訳ではありません。当然です。軍縮を求めていますが、しかしそれは、「バランスのとれた、管理された全般的な軍縮」ということです。一方的な軍備放棄を薦めていません。何故なら、それこそが最も危険であることを、カトリック教会は知っているからです。「バランス」の失われた時が危ないのです。従って、『憲法九条を世界の宝に』というスローガンを、教皇が支持するはずはありません。自らの「綱要」に沿わぬ発言を、為さるはずはありません。

「反原発」にせよ、「武力放棄」にせよ、司教様方はカテキズムや綱要、教皇庁の政策を知らないのでしょうか。まさかそんなはずはないですから、承知の上で、それと異なる自分たちの考えへの支持を、教皇に求めているのです。独り善がりで失礼なことと思います。

私の仲間は、私を含め何度か、司教団の政治的言動と教会の教えの整合性を質問しました。質問状を受け取った程度の返信はたまにありましたが、質問そのものに対する答えは皆無です。

教皇ご訪日についての日本の司教団の対応に関する検討はここで一先ず終え、次回から数会、日本の司教団への具申をしてみたいと思います。

今回の締め括りに、畏友、夙川教会の河野定男氏の下の言葉を、共感とともに紹介致します。

わたしは個人的に、本当に教皇様が日本に来て下さるのであれば、今回は徹底的にヴァチカン市国と日本国の外交上の来日であってほしいと思います。その方がより大きな観点からは、日本の福音宣教に役立つのではないかと考えています。

 

河野定男氏より更に適切な教示を頂きました。

共通善ですが、カテキズム1906に現代世界憲章26項を引用して「共通善とは『集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体』である、と理解すべきです。・・・」と解説されています。したがって「祖国防衛(安全保障)」は共通善の最重要の一つといえます。

カトリック信徒でない方々に、当該部分についてのカトリックの教えを、pdfファイルで添付します。
カトリックの教えが、ごく自然な、当たり前のものであることを、知って頂けたらと思います。

[固定アドレス]
[Home]

本文発信者は「野村かつよし」です。

ご意見はこちらへ→