2013年3月3日 (3月9日追記)
地震予知

原子力規制委員会が「活断層」の評価対象範囲を、現行の過去12万~13万年前以降から40万年前までに拡大し、7月から適用される、そうです。

このこと自体の評価は私にできませんが、どっちにせよ、「だからここは安全だ」と保証される場所は、無いと思います。どこで何が起こるか、知れたものでありません。

「場所」に対する規制委員先生方の査定は、“目処”ではあるでしょうが、何の保証でもありません。第一、先生方が「ここは安全である」というはずありません。そんな場所は無いですから。

私は、我が国は原発を棄ててはならない、という立場です。そして、絶対安全な場所が日本に無い(地上に無い)と前提すれば、安全対策の主眼は「場所探し」でありません。
完璧な「自死装置」の設営です。
揺れであれズレであれ、
津波であれ爆撃であれ、噴火であれ、
激甚状態に遭ったとき、
装置はそれを「運命」と諦め、自らを殺す。復旧再稼働は考えない。

福島第一原子力にそのポリシーがあれば、クールダウンは可能だった(のではないか)と思います。

--------------------

以下は余談です。

木村耕三という方の『三陸へ逃げる』という本があって、これは3.11大震災の直後、多くの地震関連の書物の一冊として読みました。


木村耕三氏の略歴をWebサイトで見ますと、

木村耕三(きむら こうぞう)略歴
1913年、東京・銀座に生まれる。
1938年、東京大学理学部地震学科卒業。元気象庁観測部長。理学博士。
1939年、満州国新京観象台に勤務。翌年、第二気象連隊に召集される。第二次世界大戦後、中央気象台に勤務。千歳測候所長、札幌管区気象台予報係長を経て、1951年、旭川地方気象台長に。気象台観測部測候課長、地震課長を経て、1969年、仙台管区気象台長、1971年、気象庁観測部長を歴任。
1974年、観測部長を最後に退官。
1983年6月7日、三陸町越喜来にて急逝。

とあります。
何よりも「アメダス」の創設者として、大きな功績を持つ方です。

東大の地震学科を卒業されています。
その木村先生が、簡単に言えば“第二”関東大震災を恐れて、東京から「三陸へ」逃げ出します。
この『三陸へ逃げる』は、「越喜来湾(おっきらいわん)を望む陋屋にて」書かれています。

木村先生にはもう一冊、『三陸からの警告 巨大地震を考えよう』という絶筆があります。

実は本日入手したばかりで、まだ読んでいませんが、前文(はしがき)で先生は次のように書いています。

「東海地震が起こればいまの防災体制では一瞬のうちに日本は四等国化してしまう。国防を口にし、愛国心を叫ぶなら、まず全力を挙げて、東海地震の発生に備えろ」と訴えたいために、この地震津波の名所と思われている土地に移り住んだ。恐ろしいのは自然現象そのものでなく、それによって引き起こされる災害であることを、身をもって示したいからである。

3.11大震災を木村先生は見ることがありませんでした。
私は東京を逃げ出して3.11直撃地・三陸へ移った木村先生を笑うのではありません。木村先生は上記のように地震名所であることを承知の上で三陸へ逃げました。先生は地震そのものよりも“二次災害”を恐れました。地震は、いつ何処で発生するか、分からない。神戸についても、予知した人はいませんでした。木村先生が恐れたことは、“災害”は人口とそれに伴うエネルギーの密度に比例する、ということです。3.11でも気仙沼では燃料タンクの燃料流出から大火災が発生しました。東京を取り囲む石油・LNGタンク群。その誘爆を想像すれば、怖気立ちます、普通の想像力があれば。
気仙沼の比でない地獄図となるでしょう。
更に恐怖なのは縦横に走る首都高速道路、メイン交差点に林立する歩道橋です。あれが落ちれば、交通は遮断されます。あのように危険な構築物が頭上に張り巡らされて、私はいつも恐ろしいと思っています。

「第二関東大震災」は、必ず来る、と思います。真剣に転居を考えたこともあります。しかし、止めました。逃げた場所が安全であると、どうして確信が持てるでしょう。安全な場所など、無いのです。
それに結局、事故の被害は、その時に私が居る「位置」の問題と思うからです、「地域」でなく。
それは「偶然」とか「運命」とかいう言葉の範疇と思います。私が自宅という“位置”にいる場合は、諸々の理由によって、まず大丈夫と思います。その時に何処にいるかということです。旅先で遭遇する、あるいは旅先故に免れることも、ごく当たり前に想定できます。住まいを移って、どうなるものでもないでしょう。神戸に出張していて亡くなった人がいます。その日出かけていた多くの神戸人がいます。

原発に必要なのは完璧な「自死装置」と、災害発生時に「判断・決断する必要のない」マニュアルです。


====================
(3月9日、追記)

昨日(3/8)付産経新聞の「金曜討論」で、地震予知連絡会平原和朗氏と東京大学理学部教授・ロバート・ゲラー氏の討論があります。全体は長いので私が要点と思える部分を抜粋します。

平原和朗氏
--地震の予知はできるのか
 「現時点では難しい。だが、ここであきらめてはだめだ。前兆現象が見つかる可能性は完全に否定できるわけではない。
--あと何年かすれば可能になるのか?
 「前兆をとらえたとしても影響の大きさを考えると予知として一般に公開するのはむずかしいが、範囲を限定して発表することはしなければならないと考えている。
ロバート・ゲラー氏
--地震の前兆現象をとらえれば予知できるのでは?
 「東日本大震災ではあれほどの観測網がありながら顕著な前兆現象はみられなかった。
--政府は発生の確率を出してハザードマップを作成した
 「東日本大震災も阪神大震災も、ハザードマップ上のリスクが低いとされていた場所で起きた。(中略)これでは『ハザードマップ』ではなく、『外れマップ』なのだ。


平沢先生は地震予知の“可能性”に希望を持ち、ゲラー先生は否定的です。しかし双方、現状では「予知できない」と認めています。

このようなあやふやなガクモンが強い心理的権威をもって、国家運営の根幹であるエネルギー政策に影響を与えています。「安全な場所」が何処か、そんなものは分からない。安全な場所は無い、その前提で思考すべきです。私自身は東京湾沿岸の燃料基地を危険なものと思っています。しかし撤去は、考えたこともない。利便に対してお釣りのあるリスクです。私はそれを受け入れます。

更に余談ですが、私は今なら、自由になるなら、「三陸へ逃げ」ますね。工場の東北進出は、確率として正しい選択と思います。「遷都」もやれば良いと思う。阪神・淡路大震災のあと、私は神戸へ遷都すれば良いと思いました。私の知る範囲では、大地震のあと少なくとも80年間は、同一地区で再現していません。私は「50年遷都」を、法律で定めれば良いと思います。50年を主稼働期間とし、前の10年は設営に、後の20年は新首都のバックアップに使えば良いのです。

[固定アドレス]
[Home]