2013年12月29日
鹿児島の特攻基地を訪ねる


「知覧」は、訪ねてみたいといつも思っていました。
昨年の秋に、堀栄三・元大本営参謀の『大本営参謀の情報戦記』を読んで、「鹿屋」を知りました。『永遠の0』は現在も読めていません。

今年の2月2日に、三枝成彰氏のオペラ「神風-KAMIKAZE-」を観て、知覧・鹿屋は、今年中に行こうと決めました。

指宿は昔妻と行った場所で、その後私は何度か機会がありましたが、妻はそれ以来行っていませんでした。指宿にも特攻基地があったことを知るのは、現地においてでした。

出水の「鶴」も、見たいと思っていました。ところが「出水」を調べてみると、そこからも「特攻」が出撃したことを知りました。出水への鶴飛来最盛期は12月とのことでした。従って旅の時期は12月と決めました。

更に「歴史通」 9月号で、「万世」という場所を知りました。(清武英利氏の記事。最近単行本になっているようです)

そのようなことで、出水→鹿屋→指宿→知覧→万世、という行程が決まりました。
五日間を連続して確保できるのは、12月のこの日程しかありませんでした。

特攻出撃基地を訪ねて、何かを感じ、何かを分かろうという積もりはありません。私には感じようも分かりようもないことでした。

『あゝ 同期の桜』という本がありました。その中で林尹夫という方の、次の言葉があります。

お気の毒だが、私はもうあなたがたとは縁なき者なのだ。我等とともに生活しうる者は、今年の夏まで生きぬ者に限られるのだ。

山本七平氏の『一下級将校の見た帝国陸軍』に、下の文章があります。

野坂昭如氏が「週刊朝日」昭和五十年七月四日号で沖縄の「戦跡めぐり」を批判されている。全く同感であり、無神経な「戦跡めぐり」が、戦場にいた人間を憤激させることは珍しくない。復帰直後のいわゆる沖縄ブームのとき、ちょうど同地の大学におられたS教授は、戦跡への案内や同行・解説などを依頼がれると、頑として拒否して言われた。「せめて三十キロの荷物を背負って歩くなら、まだよい。だがハイヤーで回るつもりなら来るな」と。同教授はかつて高射砲隊の上等兵であった。末期の日本軍が十日近くかかって這うように撤退した道も、ハイヤーなら一時間。「そこを一時間で通過して、何やら説明を聞いて、何が戦跡ですか。その人は、その地に来たかもしれないが、戦跡に来たのではない。それでいて何やかやと深刻ぶって書き散らされると、案内などすべきではなかったという気がする」と。

同時期にあってすら、現場にいた者と“銃後”の者は、どうしようもない断絶があったでしょう。「今年の夏まで生きぬ者」の気持ちは、おそらく分かり得ない。まして戦争を知らぬ私に分かりようはない。私はただ、資料の見学者に過ぎない。何も感じない訳ではありませんが、文章にする価値があると思えません。

 

12月21日(土)
出水特攻基地公園、特攻神社

 

特攻基地公園と特攻神社を二時間ほど回りました。
途中で僅かに雨になって、道端にいると、来るとき使ったタクシーが私たちを見つけ止まり、傘を二本貸して呉れました。雨は傘をほとんど使うことなく止んだのですが、嬉しいことでした。鶴を見に行くために、貰っていた名刺に電話しました。来た運転手は本人でありませんでしたが、話はすぐに通じ、その運転手に傘を返しました。

特攻基地と特攻神社で見るべきものは見たのですが、出水には他にも興味ある箇所があったようです。ワシモ(WaShimo)氏の、
「海軍航空隊出水基地-鹿児島県出水市」
が丁寧に撮影しておられます。

 



真鶴



ナベヅル


 

12月22日
鹿屋

「鹿屋」を知ったのは、堀栄三氏の『大本営参謀の情報戦記』によってでした。
「台湾沖航空戦」(1944年10月12日-16日)と呼ばれるものがあって、大本営の発表によればアメリカ艦隊はほぼ壊滅したことになっていました。

堀氏はフィリピンへの出張を命ぜられ、10月13日、新田原空港にいました。しかし台湾沖では航空戦の最中、南方行きの便は飛びません。堀氏は強引にそこに残った“ボロ”飛行機を飛ばさせ、航空戦基地である鹿屋海軍飛行場へ向かいます。到着したのは午後一時過ぎとあります。
そこで戦場より帰ったパイロットたちに訊ねます。

「どうして撃沈だと分かったか?」
「どうしてアリゾナと分かったか?」
「アリゾナはどんな艦型をしているか?」
「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」
「雲量は?」
「友軍機や僚機はどうした?」
「戦果確認機のパイロットは誰だ?」

明確な返事が返ってきません。

「参謀! あの煙幕は見た者でないとわからんよ、あれを潜り抜けるのは十機に一機もないはずだ」

要は誰も実態は見ていず、見えてもいない。大本営から実権を持って現地(鹿屋)へ情報収集に来る考えも無い。林氏は戦果の信用できないことを大本営へ打電します。しかし大本営は無視し、大戦果を前提として、レイテでの戦闘に向かっていく訳です。




二式大型飛行艇12型 H8K2

鹿屋の基地で感動したのは「二式大型飛行艇12型 H8K2」というものを初めて見たことで、零戦とは異なる迫力のものでした。昭和15年にこのようなものを造っていたとは、日本人というのは確かに凄いと思いました。日本に資源が無いのは、むしろ神の配慮かも知れません。アメリカも驚嘆して、本国へ持って帰ったそうです。約30年後の昭和53年(1978)、適切な引き取り手が無ければ破棄されることになり、「海の科学館」館長(当時)の笹川良一氏が資金援助と受け入れを表明。昭和54年(1979)に里帰りして、海の科学館に展示されていました。平成16年(2004)、海の科学館(神山榮一館長)より海上自衛隊第一航空群が引き渡された、と掲示されています。雄大なものです。美しい。笹川良一氏に深い感謝を捧げます。
詳細は、
「みに・ミーの部屋・二式大型飛行艇12型(H8K2)」
が、素晴らしいサイトです。



特攻隊慰霊塔

 

12月24日朝
指宿

指宿は私たち夫婦が若いとき、訪れた場所です。そのなつかしさの為の訪問で、特攻基地のあったことは、今回現地に入って知りました。何しろいきあたりばったりの人間で、旅に出るとき、事前調査を余りしません。

開聞岳というものを、私はもっとも美しい山の一つと思っています。


鹿屋や知覧から、特攻機はこの山を目標に飛び立ち、翼を振って別れを告げ出撃していったと、実際にそれを見送った人から聞いたことがあります。飯尾憲士氏に、ずばり『開聞岳』という、朝鮮出身特攻隊員を描いた小説があります。(飯尾氏は父上が朝鮮人)




航空隊基地跡

  


ここにも「二式大型飛行艇12型 H8K2」の“実働”写真が掲示されています。
この場所で、現実に活動していた訳です。勇姿、と言えます。



道端の野菊

 

  

12月24日午後
知覧



知覧特攻平和会館の敷地に入って最初に目に入るのがこの石碑です。

アリランの歌声とほく母の国に
念ひ残して散りし花花

朝鮮出身の若者も何人か、ここから飛び立っていったのでしょう。



「とこしえに」像

体は出撃方向を、目線は、守るべき古里を見ている、と聞きました。

 

 

12月24日夜
鹿児島



ザビエル教会

 

 

12月25日
万世

「万世」のことは、月刊誌『歴史通』本年9月号の清武英利氏の文章で知りました。
この朝、レンタカーの営業所へ向かうタクシーの運転手から、万世基地のある海岸「吹上浜」は、“日本三大砂丘”の一つであること、(あとで調べてみると、鳥取砂丘と、もう一カ所は遠州灘にある“中田島砂丘”でした)、そして北朝鮮による「拉致事件」のあった場所だと知りました。
(→「電脳補完録」による資料)

市川修一さん、増元るみ子さんのお名前はよく知っており、拉致現場が海岸であったことも承知していたのですが、それが「吹上浜」であるとは、私の中でまったく結びついていませんでした。



万世特攻平和祈念館


この「犬を抱いた少年兵」の画像は余りにも有名です。知覧特攻平和会館にも数カ所で、全体、部分とも掲示されていますが、実際に出撃していったのは万世基地からのようです。詳細は清武英利氏による単行本、『「同期の桜」は唄わせない』をご参照下さい。


私が釘付けにされたのは、この遺書の前でした。
この文字を書いたのは二十歳の青年でした。粛然としました。
万世基地から二人の朝鮮人若者が出撃・散華しています。彼らの心の屈折は、私には更に想像できません。遺影の表情は凜としております。

 



鹿児島県の平成25年度「九州森林の日」植樹祭案内サイトより借用

万世特攻平和祈念館は上の地図外、右下方向に隣接して在ります。
私は第一駐車場の上方右端、つまり海岸に一番近い場所に車を置き、歩きました。
広大な公園です。
中心の濃い緑の中を海に向かって垂直に伸びているのが、特攻の出撃した滑走路のあった場所と聞きました。周辺は林になっています。その道を抜けて薄い緑の中へ入ると、松林になります。
松林というと私の知る範囲では「虹の松原」が第一ですが、それに匹敵すると思いました。ただ虹の松原に比べ、樹齢は若いようです。


細かい粒子の広大な砂浜です。資料によれば、砂浜の長さ約47kmだそうです。全体を見渡すことが出来ません。この時期、人影もありません。




振り返ると深い松林です。

市川修一さん、増元るみ子さんが拉致されたのは、昭和53(1978)年8月12日だそうです。
真夏のことですから、今見る海岸と随分雰囲気は違い、人も多かったでしょうが、狙われたら、予期していない者には対応のしようが無いですね。

今回の旅を終えて帰った翌日、26日、安倍総理は靖国神社を参拝されました。私が最初に感じたことは「安堵」でした。よかった、ということです。中韓の反発は、放っておくしか仕方ないと思います。アメリカの“失望”も意外でしたが、これも日本人には良い勉強の機会でしょう。アメリカが常に日本の味方である訳ではないという、当然を学んだことです。。

今回の安倍総理の靖国参拝を“政治的側面”で言えば、中韓に対してハードルを上げた訳です。周さんや朴さんが安部さんに会うなら、それは“靖国参拝した安部”を、受け入れることになる。従って会わないでしょうが、こちらは会わなくてもかまわない、と告げた訳です。それで良いのではないでしょうか。相手の踏み絵に対して、こちらの踏み絵で返した訳です。

五カ所の特攻基地を見て、その記念施設に、特攻で死んでいった方々への「感謝」はあっても「賛美」は無かったと思います。そして求めているのは「平和」です。これは靖国神社にも言えることで、素直な心で訪ねてみれば、普通の感性を持つ人は、感じることが出来るはずです。

私の以前のページを紹介させて頂いて、今年の「時事短評」を終えます。来年、私は「年男」です。ついこの前、“還暦”を迎えたと思ったのですが。時の流れが加速していきます。皆様、良い新年をお迎え下さいませ。


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