2014年7月2日
司教団の病(二)
司教団の「政治的発言」は、異なる考えを持つ信徒へのパワーハラスメントである

 

本文は、主にカトリック信徒でない方々に読んでいただきたいと思いつつ、書き続けています。

厚生労働省のサイトによれば、パワーハラスメント(パワハラ)とは、「職権などのパワーを背景にして、本来の業務の範疇を超えて、継続的に人格と尊厳を侵害する言動を行い、就業者の働く関係を悪化させ、あるいは雇用不安を与えることをいいます。」とあります。

私は小さい会社の経営をしております。会社の本来業務においては命令権者ですが、命令できるのはその範囲に限られており、政治、まして宗教の話を、部下にすることはありません。部下に、「本来業務以外の(心理的)負担を与える」と心得るからです。上下関係は会社業務に限定されたものですが、それを離れた話題なら公平自由な話・議論が出来るか、人情の分かる者なら、それが可能と思わないでしょう。

私は常々、司教団・聖職者の、その肩書での政治的発言を、異なる考えを持つ信徒へのパワーハラスメントであると思っています。そう言えるかどうか、2つの要素があります。

1) 司教・聖職者は「職権などの保持者」であるか。
2) その「政治的発言」が、「本来業務の範疇」にあるか。

1) 司教・聖職者は、「教会」において、明らかに信徒とは異なる職権を持っています。司教は権力者なのです。ミサ説教に反論など出来ませんし、そこでの政治的発言は、身を固くして聴くしかありません。聖堂を出ても信徒が司教・聖職者の時間を自由にできません。この位階差は、経営者と従業員の比ではありません。従業員は経営者を選ぶことが出来ます(転職)。取締役は社長を解任することもできます。司教は、好んでお使いになる“弱者”とは、対極の存在です。ほとんど完璧な安全地帯に居るのです。そして好きなことを言うのです。

2) 教会は政治との関わりについて下のように教えています。

カトリック教会のカテキズム 2246 人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときには、政治的秩序に関することがらについても倫理的判断を下すこと」は、教会の使命に属することです。「これらを行うにあたって教会は福音にふさわしく、時と条件の違いに応じてすべての人の益にふさわしいあらゆる手段を、そしてそれのみを用いる」のです。 

同 2442 政治体制の構築や社会生活の組織づくりに直接に介入することは、教会の司牧者の任務ではありません。この任務は信徒の召命の分野であり、信徒は他の一般市民と力を合わせながら自らの発意でそれを果たさなければなりません。社会活動には具体的にはさまざまな形がありえますが、どんな形のものであっても、それはつねに共通善を目指し、福音と教会の教えに従って行われなければなりません。「キリスト教的関心に基づいてこの世の現実に活力を吹き込むのは、信徒の役割です。そしてそのことによって信徒は、平和と正義の証人となり、担い手となるのです」。

教会の社会教説綱要 424 (前略) 「宗教や倫理とのかかわりがないかぎり、教会は政治計画の利点に関する議論にかかわるべきではありません。」

以上のようにカトリック教会は、
人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときに倫理的な判断をすることは教会司牧者(司教、神父、いわゆる聖職者)の「使命」であるが、それ以外は「かかわるべきでない」
と教えているのです。

従って、司教様方の発する政治的発言、「憲法九条」「原発」「国旗国歌」「天皇」「防衛」「秘密保護」等々の発言が、「人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときの倫理的な判断」に該当するのか、が問題になります。そうであるならばそれは「職権に基づく本来業務」です。そうでないならば、本来業務を外れた信徒への圧迫です。私たちは根本的な問題として、何度もその点を司教様方に質問したのですが、答えはありません。答えの積りか、出されたのが、『なぜ教会は社会問題にかかわるのか Q&A』(日本カトリック司教協議会 社会司教委員会・編)でしょう。が、この書物にも実は回答はありません。

『なぜ教会は社会問題にかかわるのか Q&A』の第一問への回答に、

「(前略)ですから、教会は、福音を生活によってあかしするだけでなく、人間のいのちの尊厳と基本的人権、共通善などにかかわる諸問題を福音と教会の教えに照らして理解し、人々の救いのために必要であると判断するとき発言するのです。」(p.15)

と答えています。

自分の言動が法に従って正しいと主張する時、人は、普通には当該条文を示します。教会においては、「カテキズム」とか、「社会教説綱要」とか、「現代世界憲章」がそれに当たります。それらのどの教えが、司教発言の裏判になるのか、それを示して下さいと尋ねているのです。それらの「教会の教え」の中に私たちはそれらしきものを見出すことが出来ない、のみならず、むしろ逆の言葉を知るのです。

教会の教えが無防備・無防衛でないこと聖座が反原発でないことは、既に述べました。日本の司教団の見解からすれば、世界の多くの国々は反福音・反倫理的である、ということになります。カトリック教会のカテキズムも綱要も、反福音・反倫理であることになります。それを整合させなければ「答 A」にならないのです。司教団が原発の即時廃止を言い、非武装・無防衛を言うなら、相手先は日本国政府以前に、教皇庁であり、軍隊、原発の保有国でなければならない。教皇庁並びに諸国に対し、あなた方は非倫理的、反福音的であると批判しなければならない。それをしないで自分たちの発言を倫理的・福音的と言ってみたところで、勝手な独り善がりに過ぎないのです。

そうした信徒の声が聞こえたのか、「なぜ教会は社会問題にかかわるのか Q&A シンポジウム」が、三度開催されました。書物で説明しきれないものを直接信徒と“シンポジウム”するはずのものでした。私は2012年12月1日の大船教会に参加しました。しかしその時もまた、はぐらかされたのでした。非常に不誠実な会合であったと思います。そもそも“シンポジウム”でありませんでした。中でも谷大二司教(当時正平協会長)の話はひどいもので、youtubeでアップされていますので、興味のある方はご点検下さい。内容がテーマと外れおり、かつ話そのものが詰まらない。しかも所定時間を大幅にオーバーし、結果として、(明らかに意識して)、私たちの発言を封じました。いま思い出しても不愉快です。

私は、命の尊厳、基本的人権・共通善の守りの為に、防衛力は必要であると思う者です。国旗国歌・皇室への敬意は、我が国の共通善に叶うと思います。原子力発電についても、核の再処理問題を含めその技術開発に、大きな希望を持っています。我が国が原発を廃止し、世界の化石燃料を高騰させ、発展途上にある人々からエネルギーを取り上げ、発展へのハードルを上げることが、倫理的であるのか。持てる者は、国でも個人でも、如何なる対応もできるのです。ダライ・ラマ14世の「原発は必要」という発言を、非倫理的であると司教団は考えるのでしょうが、ならば、ダライ・ラマを批判すれば良い。私は「原発」も「九条」も「集団防衛」も、倫理の問題でなく「政策」の問題と思います。司教が信徒にそれを語ることは、私が会社において部下に、政治や宗教を語るのと同じことです。私が係わってはならないのです。

私と異なる考えの方々も当然に多くいるでしょう。しかしそれは「信徒の問題」であって、社会教説綱要424にあるように、「宗教や倫理とのかかわりがないかぎり、教会は政治計画の利点に関する議論にかかわるべきでは」ないのです。(この場合の「教会」は、教会を代表して、とか、教会の名において、の意味と思います。司教団声明のようなものがそれに当たると考えます)。

教会には多様な意見の持主がいます。当然です。(この場合の「教会」は、聖職者、信徒を含めたすべてです)。司教様方がそれを知らぬ訳ではないでしょう。批判されぬ立場を使っての一方的な意見の表明は、それと異なる考えを持つ信徒を、排除して行きます。布教でなくふるい落としです。残るのは司教様方の政治的意見に同じ考えの人、司教様のお言葉だからと何が何でも従う人、そして無視する人です。司教の言葉を真剣に受け留め、自分の考えとの差異に悩み、挙句に多くの人が教会から遠のきました。戻る人もいるでしょうし、戻らぬ人もいるでしょう。教会に一番必要な人たちだったと思います。カトリック新聞に対しても同様です。購読者数は一貫して減っているはずです。(数字を知るよしもありませんが、私の知る範囲で、購読を止めた人はいますが、新規購読を始めた人はいません)。
カトリック学校についても、影響のあることを聞いています。司教団の政治的発言を知り、そのような人々の影響下にある学校へ子女を入れたくない、と考える親が多く出ても、自然なことです。

[固定アドレス]
[Home]

本文発信者は「野村かつよし」です。

ご意見はこちらへ→