2012年11月17日
「安全神話」という神話

14日に野田首相が、衆議院を16日に解散すると表明しました。翌15日、日経平均株価は164円99銭値上がりし、昨16日には194円44銭上がりました。

私はかつて原子力について二つの文章を書きました。
[永井隆博士と原子力] 1998.04 @
[東海村臨界事件について] 1999.12 A

福島第二原発大事故の後も、この二つの文章での考えを、変える必要を感じません。
@で引用しましたように、永井博士の原子力肯定文章は、私の考えを決定づけました。もとより永井博士は「原発事故」を知らず、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマを知ったとしたら、どう考えられたか、私には分かりません。人が人に影響を与えるのは、与える方も受ける方も、それぞれの人生のある局面での、断片の接触であります。

以下旧文@から、核心部分を引用します。

私たちはかつて原子力実験船むつを、微量の放射線漏れを理由に廃船にしました。日本人の多くが、完璧なものなら実験などする必要はなく、まさにこのようなことが起こり得るから実験するのだと考えませんでした。実験の過程で多くの不都合のでることは、むしろそれだけの経験が積めて良いことである、と考えませんでした。政治家も官僚も誠実さと確信をもって国民に語らなかったのです。そのことの延長が最近の動燃の隠蔽ごまかし工作につながっているのです。

本当のことを話せない本質で語り合えない、ものを直視できぬ弱い精神。ディスカバリーの爆発のあとレーガン大統領が「悲しいことではあるが起り得ることだ。今後とも起り得る。しかし我々は続ける」という意味のことを語ったと思います。

「最近の動燃の隠蔽ごまかし工作」というのがどの件を指しているのか今では定かでありませんが、福島第二原発事故に至るについても、日本人のこの病理は不変に見えます。危険を語れば発狂するのです。だから、「絶対安全」を言うか、隠蔽するしか無いのです。世の中に「絶対安全」なものなど無い。絶対安全という言葉は、それ自体に嘘を含んでいると、日本人は考えないのです。
日本人は、というと僭越ですかね。しかし、報道陣も学者も、私には同類に見えます。

すべてが「絶対安全」の虚構上に構築されますから、論理的に「避難訓練」はありません。「避難訓練」など企画すれば、避難が必要とは危険なのか、と逆上されます。手が付けられないのです。
それががどれほど「危険」な状態であったか、今回の福島原発事故で、日本人は学習したでしょうか。
(因みに、「非武装」を唱える人々も、脳構造は同じです)

Aより、引用します。

つまり、「原子力安全委員会の先生方」「関係省庁の先生方」「核燃料サイクル開発機構の方々」「日本原子力研究所の方々」の「絶大な御支援」によって、速やかな鎮静化の第一歩を踏み出している、先生方と「話は付いていますよ」と、「報道各位」に宣言しているのです。それに対して報道各位が納得してしまっているのが現状です。
なぜ、かくも速やかに最高責任者が「事態の沈静化」に確信を持つことができたのか。それは先生方が今までに「為すべきチェックをしていず」あるいは「知って知らぬフリ」をしていたからです。チェック機構の無責任と怠慢、更には無能があったのです。この文章は、詫び状というより「感謝状」であり、同時に先生方に対する静かなる威嚇でもあります。彼らはみんな「共犯者」なのです。そう考えなければ意味が分かりません。そう考えればよく理解できる文章です。心底、怒りを覚えます。

これは余りにもあからさまなな「原子力ムラ」なれ合いの表明でした。名指しされた“報道各位”が、私の知る限り何の疑問も表明しなかったのは、報道もまた「ムラ」の一員あることを示しています。

原子力を安全なものと私は思いません。そもそも絶対的に安全なものがこの世にあると思いません。神は私たちに物を与えるとき、叡智と誠実の限りを尽くして使うように、油断すれば危険なものとしてお与えになったのです。すべてがそうです。
スイスでは原発の危険に対する国民への教育が徹底しているそうです(最近、車の中で聞いたNHKラジオ、海外の話題)。何であれ周知教育すべきはそのプラスとマイナスであり、その上で何を選ぶかという選択の問い掛けなのです。それが教育であり政治です。日本にはそれが欠落しているのです。火力にも水力にも当然のマイナスがあることを認識して、語り合わなければなりません。

危険だ危険だと言えば、それは絶対に間違いのない主張です。それに対して正直者は反論のしようがない。事実、危険だからです。反論すれば日本では、そこですべて終わりますね。危険を前提とした、議論の出来ない国なのです。

おそろしく、(あるいは悲惨に)、面白いのは、「九条平和教」徒の考え方です。
私の二十歳前の日記帳に、
「自分は平和主義者である。平和主義とは“平和を前提として”考える者である」
という、我ながら極めて明晰な文章を記しています。平和が前提ですから、当然、非武装になる訳です。私は不活動左翼でした。
何年か前、同じ主旨の文章を、著名な「九条平和教徒」が書いているのを見て、笑いました。私はその前提を50年前に棄てたのですが

私はこの一連の“原発事故”に関する文章を、私なりに日本人を理解しようとして書いています。テーマはそこにあります。日本が何故、いわゆる「十五年戦争」へ入って行ったのか。

九条平和教徒は、軍備は無駄だ、といいます。「誰も攻めて来ない」のだから。

長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。

日本国憲法
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

考え方、というか、考えの端折り方、打切方が、相似ですね。自分の想定の範囲でしか事は起こらないという、身勝手、無責任なものです。それは私が、最終的な読書として読み重ねている昭和前期の政治、軍部も報道も、絶望的に同じ姿を示しています。

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